約 128,632 件
https://w.atwiki.jp/shomen-study7/pages/1331.html
人権教育及び人権啓発の推進に関する法律第3条 衆議院・法務委員会、2000年11月15日議決 人権教育および人権啓発の推進に関する法律案に対する附帯決議 この法律の施行に伴い、政府は、次の点につき格段の配慮をされたい。 一 人権教育および人権啓発に関する基本計画の策定にあたっては、行政の中立性に配慮し、地方自治体や人権に関わる民間団体等関係各方面の意見を十分に踏まえること。 二 前項の基本計画は、「人権教育のための国連十年」に関する国内行動計画等を踏まえ、充実したものにすること。 三 「人権の二十一世紀」実現に向けて、日本における人権政策確立の取組みは、政治の根底・基本に置くべき課題であり、政府・内閣全体での課題として明確にするべきであること。 参議院・法務委員会、2000年11月27日13時、江田提案 人権教育および人権啓発の推進に関する法律案に対する附帯決議(案) 政府は、「人権の二十一世紀」を実現するため、本法の施行に当たっては、次の諸点について格段の努力をすべきである。 一 人権教育及び人権啓発の推進に関する本法の基本理念並びに国、地方公共団体及び国民の責務について周知徹底を図り、特に人権にかかわりの深い業務に従事する公務員に対する人権教育につき、その業務の性質に応じた適切な措置を講じること。 二 人権教育及び人権啓発に関する基本計画の策定に当たっては、地方自治体や人権にかかわる民間団体、人権侵害を受けた当事者等の意見を十分に踏まえること。 三 人権教育及び人権啓発に関する基本計画は、「人権教育のための国連十年」に関する国内行動計画で重要課題とされているものを中心に、幅広い課題に取り組むこととするとともに、人権に関する国際基準に合致したものとなるよう、十分留意すること。 四 人権政策は、政治の根底・基本に置くべき最重要課題であることにかんがみ、個別省庁の枠を超え、内閣全体で取り組むこと。 五 障害者に対する欠格条項撤廃など、人権教育および人権啓発に資する施策を推進すること。 右決議する。 参議院・法務委員会、2000年11月27日17時、自民党回答 人権教育および人権啓発の推進に関する法律案に対する附帯決議(案) 政府は、「人権の二十一世紀」を実現するため、本法の施行に当たっては、次の諸点について格段の努力をすべきである。 一 人権教育及び人権啓発の推進に関する本法の基本理念並びに国、地方公共団体及び国民の責務について、周知徹底を図り、特に人権にかかわりの深い業務に従事する公務員に対する人権教育につき、その業務の性質に応じた適切な措置を講じること。 二 人権教育及び人権啓発に関する基本計画の策定に当たっては、地方自治体や人権にかかわる民間団体、人権侵害を受けた当事者等関係各方面の意見を十分に踏まえること。 三 人権教育及び人権啓発に関する基本計画は、「人権教育のための国連十年」に関する国内行動計画等を踏まえ、充実したものにで重要課題とされているものを中心に、幅広い課題に取り組むこととするとともに、人権に関する国際基準に合致したものとなるよう、十分留意すること。 四 人権政策は、政治の根底・基本に置くべき最重要課題であることにかんがみ、個別省庁の枠を超え、内閣全体でその取組みに努める取り組むこと。 五 障害者に対する欠格条項撤廃など、人権教育および人権啓発に資する施策を推進すること。 右決議する。 参議院・法務委員会、2000年11月28日12時20分議決 人権教育および人権啓発の推進に関する法律案に対する附帯決議 政府は、「人権の二十一世紀」を実現するため、本法の施行に当たっては、次の諸点について格段の努力をすべきである。 一 人権教育及び人権啓発の推進に関する本法の基本理念並びに国、地方公共団体及び国民の責務について周知徹底を図り、特に公務員による人権侵害のないよう適切な措置を講じること。 二 人権教育及び人権啓発に関する基本計画の策定に当たっては、地方公共団体や人権にかかわる民間団体等関係各方面の意見を十分に踏まえること。 三 人権教育及び人権啓発に関する基本計画は、「人権教育のための国連十年」に関する国内行動計画等を踏まえ、充実したものにすること。 四 人権政策は、政治の根底・基本に置くべき重要課題であることにかんがみ、内閣全体でその取組みに努めること。 右決議する。 http //www.eda-jp.com/dpj/houan/jinken1115.html
https://w.atwiki.jp/damsite/pages/2563.html
黒瀬ダムをお気に入りに追加 黒瀬ダムのリンク #blogsearch2 ウィキペディア 黒瀬ダム 黒瀬ダムの報道 海水淡水化に処理水再利用 松山市、水不足解消へ再検討 - 朝日新聞デジタル <木曽川水景> (57)木を運んだ川 - 中日新聞 西条市長選 無所属現職の玉井敏久氏が再選 - 愛媛新聞 全国42のダムで土砂が許容量を超え堆積 国が対策支援へ | 注目記事 - NHK NEWS WEB 愛媛)「県は調整から手を引く」松山分水で知事明言 - 朝日新聞社 愛媛)分水めぐり松山市が新提案 西条市長は「区切り」 - 朝日新聞社 「松山分水は困難」西条市が拒否 愛媛県提案に回答 - 日本経済新聞 黒瀬ダムの構造分析 黒瀬ダムの86%は欲望で出来ています。黒瀬ダムの7%はお菓子で出来ています。黒瀬ダムの3%は優雅さで出来ています。黒瀬ダムの2%は宇宙の意思で出来ています。黒瀬ダムの1%は理論で出来ています。黒瀬ダムの1%は白い何かで出来ています。 powered by 成分解析 黒瀬ダムの掲示板 名前(HN) カキコミ すべてのコメントを見る ページ先頭へ 広島県/黒瀬ダム このページについて このページは黒瀬ダムのインターネット上の情報を時系列に網羅したリンク集のようなものです。ブックマークしておけば、日々更新される黒瀬ダムに関連する最新情報にアクセスすることができます。 情報収集はプログラムで行っているため、名前が同じであるが異なるカテゴリーの情報が掲載される場合があります。ご了承ください。 リンク先の内容を保証するものではありません。ご自身の責任でクリックしてください。
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/3504.html
登録日:2011/06/14(火) 13 55 24 更新日:2023/10/25 Wed 18 36 07 所要時間:約 5 分で読めます ▽タグ一覧 人類最強の戦闘集団 ←予算的に Gフォース VSシリーズ ゴジラ 平成VSシリーズ 東宝 浪曼 自衛隊 軍隊 > 『Gフォース』とは、東宝が製作した特撮映画シリーズである『ゴジラシリーズ』の内、 『VSメカゴジラ 』、『VSスペースゴジラ』、『VSデストロイア』の3作に登場した架空の軍事組織である。 英語での表記はそのまま『G-Force』。 概要 1992年。留まるところを知らないゴジラ被害の恐怖から世界を解放する為、 特に被害の大きい日本が中心となって国連G対策センターが茨城県筑波市(現つくば市)の筑波山の麓に設立された。 国連直轄組織という関係上、殆どの職員は英語に堪能である。現場ではもっぱら日本語と英語を適宜使い分けている。 その中でもGフォースはゴジラ抹殺を目的とした戦闘部門であり、世界中から若く優れた者を集めた精鋭実働部隊である。 精鋭揃いだけあって『人類最強の戦闘集団』と呼ばれ、若者達の憧れの的であると同時に厳しい訓練で恐れられてもいる。 世界中から優秀な兵士が選抜されているが、ゴジラとの交戦経験が豊富な為か、あるいはゴジラへの憎しみか、 劇中に登場する隊員は麻生司令や佐々木隊長を含め自衛隊から出向あるいは志願してきた人物が多い。 各国の軍隊を上回る権限を持ち、場合によっては自衛隊を指揮下に収めて作戦を行う。 主要な装備は自衛隊や協力する国家から提供された兵器に対怪獣用の改造が加えられた物が使用され、 自衛隊が運用してきたメーサー兵器や、遠隔操作仕様に改造された74式戦車は勿論、アメリカ軍から提供されたF-16等、非日本製の兵器も運用される。 そしてGフォース最大の戦力は、海底から引き揚げられたメカキングギドラから得た23世紀の科学技術を基に開発された 対ゴジラ用戦闘マシン2号機メカゴジラ、そしてMOGERA等のロボット兵器である。 なお1号機ガルーダはメカキングギドラ回収以前の機体であり、「現代科学の粋を集めた」だけの機体である。 これら以外にも対G用海底軍艦の建造も計画されていたが、後述の理由から中止されてしまった。 世界中が協力して誕生した組織だったのだが、ガルーダとメカゴジラが一度はゴジラを活動停止まで追い込んだものの、 ラドンというイレギュラーの登場によりゴジラは復活し、スーパーメカゴジラも破壊されてしまう。 続けて、超能力でゴジラをコントロールしようする「Tプロジェクト」が失敗し、 純粋に火力でゴジラを倒そうという「Mプロジェクト」も肝心のMOGERAがスペースゴジラとの戦闘に使用され、 結局ゴジラとは殆ど戦えないままスペースゴジラ共々ゴジラに破壊、大破されてしまい、これも失敗に終わった。 これらの失敗により組織が縮小されてしまい、新たな対G兵器の開発計画も中止されてしまった。 そして登場最終作である『ゴジラVSデストロイア』でも通常の火器しか持たないGフォースの装備では、 暴走状態で何時メルトダウンを起こすか分からないゴジラや、弱点である冷凍攻撃以外では成長を促してしまうデストロイアには手出しが出来ず、 作戦のほぼ全てを自衛隊に委ねざるを得ず、監視と作戦の立案しか出来なかった。 今作を持って同世界観のシリーズが終了した為にその後は不明だが、組織が更に縮小されたか解散したのは想像に難くないだろう。 結局、鳴り物入りで登場した組織であったが、最後の見せ場を自衛隊に奪われたりとあまりにも中途半端な結果に終わってしまった感は否めない。 国連の肝いりの元に設立された組織であるが、実は水面下でかなりの駆け引きがあったらしく、 メカゴジラはアメリカの、MOGERAはロシアの意向が強く関わっていたらしい。(*1) この辺りの政治的な駆け引きは日本政府も同様で、ムック本『ゴジラVSGフォース』によればGフォースに予算を出しているのは国連なので、自衛隊の人員や対G兵器を敢えてGフォースに移籍させる事でゴジラ対策で湯水の如く消えていく防衛費を浮かせているのだという。 なお、VSデストロイア当時、MOGERAに代わる四号機が登場しなかったのは、 既に巨大ロボット技術を獲得した米露双方がもはや用無しと見なして手を引いた事で、Gフォース自体が既に縮小していたからだそうである。 中心人物 ◆麻生孝昭 大佐(演 中尾彬) Gフォースの総司令官。打倒ゴジラに執念を燃やし、その為には手段を選ばない。 自衛隊出身で、『VSスペースゴジラ』に登場する結城晃は自衛隊時代からの部下である。 別世界の2000シリーズでは機龍(メカゴジラ)、ファイナルウォ―ズでも海底軍艦でゴジラを一度は封印する等、何かとゴジラに縁がある。 ◆兵藤巌 中佐(演 上田耕一) Gフォース兵器開発部門の主任。『VSスぺースゴジラ』では副司令官に昇格した。 オーディオコメンタリーによれば司令官の座を狙っているらしい。 『VSデストロイア』では登場しなかったので勘違いされやすいが、しながわ水族館の警備員は「田山孝夫」という全くの別人であり、落ちぶれた訳では無い。 彼を演じた上田耕一氏は平成ゴジラの全作品に登場している人なので混乱するのも無理はない。 ◆佐々木拓也 大尉(演 原田大二郎) Gフォース・メカゴジラ隊隊長。 厳しさにかけては超一流だが、時にユーモアな面も見せる。 メカゴジラのメインパイロットも務めたが、登場は『VSメカゴジラ』のみ。 ◆結城晃 少佐(演 柄本明) MOGERA隊指揮官。 元陸上自衛隊で、麻生司令官はその頃からの上官だった。 『VSビオランテ』での大阪の戦いで殉職した権藤吾郎一佐の親友であり、彼の仇を討つ為に単独バース島に渡ってゴジラ打倒のチャンスを狙っていたが、 麻生の肝入りでMOGERAの指揮官に着任した。 基本的に一匹狼な人物で、目的の為には命令違反も厭わない。 ◆瀬川隆之(演 佐原健二) 国連G対策センターの長官。基本的には人格者だが、時には非情な判断を下す。 初出は『ゴジラVSキングギドラ』であり、当時は防衛庁長官だった。 ◆国友満(演 篠田三郎) 国連G対策センターの2代目長官。Gサミットの議長も兼ねる。 興味深い意見を持つ者と感じれば民間人でもG対策センターに招く柔軟さを持つ。 『VSモスラ』に登場した深沢重樹とは他人の空似であろう。 ◆三枝未希(演 小高恵美) 『VSビオランテ』から続くシリーズ常連の超能力者。国連G対策センターに勤務しているが、Gフォースの要請で作戦に参加する事もある。 ベビーゴジラと触れ合って以降はゴジラ自身に理解を示す様になり、その一生を見届けた。 主な装備 ここでは架空の兵器や実在の兵器との差異にのみ触れる。 ◆ガルーダ 対ゴジラ用戦闘マシン1号機。形式番号UX-01-92。 武器は高出力メーサーキャノンが2基のみ。 機動力に重点を置いた設計が成され、高い機動性を得たが攻撃力に欠けていた為に開発は中止。 見学者用の展示物と化していたが、開発チームの一員だった青木一馬によって密かに改良され続けていた。 その後、青木の提案(もとい脅迫)によってメカゴジラと合体出来る様に改造されてスーパーメカゴジラへのパワーアップを果たした。 結局は破壊されたものの、そのコンセプトはMOGERAやスーパーXⅢへと受け継がれた。 ◆メカゴジラ 詳しくは『メカゴジラ(VSシリーズ)』を参照。 ◆MOGERA 詳しくは『MOGERA』を参照。 ◆92式メーサービーム戦車 ◆93式自走高射メーサー砲 ◆93式メーサー攻撃機 詳しくは『メーサー兵器(平成ゴジラシリーズ)』を参照。 ◆61式 改 戦車 高額で配備の進まない90式戦車の代用としてGフォースに配備された物。 61式の車体に74式の砲塔を載せているが砲塔は固定されていて、事実上の突撃砲となっている。 最大の特徴は遠隔操作式の無人戦車である事で、93式自走高射メーサー砲によって管制される。 ◆74式 改 戦車 こちらは実在の74式戦車と殆ど変わらないが、やはり無人化されていて93式自走高射メーサー砲から無線でコントロール出来る様になっている。 ◆F-16 改 アメリカ製のF-16C戦闘機をベースにカナード翼の追加や対ゴジラ用装備の追加等の改造を行ったGフォース所属特別仕様機。 ◆F-15 映像未登場になったGフォース仕様のF-15戦闘機。 神戸上空でスペースゴジラと空中戦を行う予定だったが、残念ながら撮影されず。 ◆AH-1 コブラ 攻撃ヘリ。エンブレムがGフォースのものになっている。 鹿児島湾でゴジラを迎撃する。 撃墜シーンも撮影されていたが、本編未使用。 ◆護衛艦 海上自衛隊からGフォース海軍に譲渡された模様。艦橋の側面部分に「G-FORCE」と書かれている。 はるな型護衛艦やはつゆき型護衛艦が登場。 AH-1 コブラなどと共に、鹿児島湾でゴジラを迎撃するがゴジラの放射熱線を受け、爆沈する。(*2) ゴジラ対策に頭を抱えている方は追加・修正をお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] ぶっちゃけ メカゴジラやモゲラの運用部隊に -- 松永さん (2013-11-12 01 18 20) 対ゴキb…おや、誰か来たようだ。 -- 名無しさん (2014-03-06 20 25 05) ミリオタ目線で見ると提供される戦闘機がF-16程度ってのがなんとも生々しい -- 名無しさん (2014-08-05 20 04 18) ゴジラ相手にステルスのF22とか意味ないし、現有のミサイルが使えて手頃な機体って意味では合理的なのかも -- 名無しさん (2014-08-22 19 08 27) ↑そっか、戦闘機って結局は対人兵器でしかないんだもんな。 -- 名無しさん (2014-12-19 16 57 19) アメコミ版でも出てきたけど、まるで役立たずの無能集団・・・・。 -- 名無しさん (2015-04-26 01 55 59) 通常兵器部隊の懐事情を一番表す61式改という魔改造戦車・・・ -- 名無しさん (2016-02-25 08 42 25) vsメカゴジラでの通常兵器部隊との戦いの時、戦車や戦闘機の攻撃にゴジラは怯んでたがあれは何でだろ?メカゴジラ戦の傷口に上手いことあてたとか? -- 名無しさん (2016-03-25 17 12 57) シン見たらGフォースって凄いんだなって思えたわ -- 名無しさん (2016-08-01 22 14 01) 概要にある通り、対ゴジラへの功績が散々で終わったのに公式やファンからはやたら大事にされてる印象。ゲームでスーパーXや機龍すらGフォース所属になってるのはちょっとどうかと思った -- 名無しさん (2016-08-10 10 53 43) 巨大ロボット怪獣二体を造ったロマン組織だもの。大事にされない訳がない。 -- 名無しさん (2016-08-10 10 59 42) まあ国連だし世界規模で立ち向かうって面を出したらピックアップされやすいんじゃない -- 名無しさん (2016-08-10 11 15 57) ゴジラに対しては散々つったって地球ヤバいレベルの事変をいくつも解決してはいるしな -- 名無しさん (2016-08-10 12 09 03) メカゴジラの時とデストロイアの時と麻生大佐のテンションが違い過ぎるのが少々見てて辛い。まぁ人類の総力掛けて作ったメカゴジラとモゲラは愚か、それ以外の兵器や人員が悉くゴジラに負け続けてきたらあぁもなるのかな -- 名無しさん (2016-08-20 22 46 13) 有事の際の出撃戦力は基本現地軍を徴用するらしいけど、米軍や露軍にもメーサー兵器ってあったのかしら -- 名無しさん (2016-08-21 00 11 10) SFvs虚構で、シンゴジラと対決したらどうなるんだろう -- 名無しさん (2017-09-13 22 18 27) 色々黒い設定考えようと思えば考えられる組織だよね。対ゴジラによって強化しまくった自衛隊に対する矛そらしのために設立したとか。 -- 名無しさん (2017-09-13 22 36 39) VSメカゴジラとVSスペゴジの内容を物凄くひねくれた見方をするなら、米ロが自前で作った巨大ロボット兵器を対ゴジラ兵器と謳って、日本で実験しただけ -- 名無しさん (2017-12-17 15 35 08) ↑84でもゴジラ退治を名目に日本で核実験しようとしてたからな。VSビオランテの時のバイオメジャー(米)やサラジア(中東)といいVSキングギドラの未来人といいVSシリーズに出てくる外人は大概どいつもこいつもロクな事しねえ -- 名無しさん (2017-12-17 16 02 37) ゴジラVSガイガンレクスの世界、後々新生Gフォースみたいなのが再建されそうだな -- 名無しさん (2023-10-25 18 36 07) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/librariberia/pages/221.html
79 :以下、名無しにかわりましてブーンがお送りします:2012/02/12(日) 21 01 18 ID 3kyIWTtMO *** 地球を目指しているランサス星系王立宇宙軍の艦隊は、もはや聞く耳を持たなかった。 「何せ彼奴らに言わせると太陽系は、海賊の拠点らしいお。笑える話だおね」 シルフィールドに搭載されたホライゾン達パイロットは、戦闘前の緊張を和らげようとしていた。 「しかし、なんでまた、こんな辺鄙なとこに目を付けたんだ?」 「連中の星じゃ地球なんて未開の惑星ってイメージしかないモナ。政府が地球は海賊の拠点になってる、現に大勢の海賊が逃げ込んだ、悪の惑星だと吹聴したって疑う奴は少ないだろうし確かめることも難しいから、うってつけだモナ」 「星系間連盟に入れていりゃあ、連盟軍の仲裁も期待できたが…国連がなあ」 同僚の吐き出すやるせなさが、憤りに変わる前にホライゾンは諫める。 「国連のせいにしてばかりいられないお。僕たち太陽系軍が海賊の侵入を防げなかった事は事実だお」 「…しかしなあ」 「気持ちは分かるけど僕たちがやるしか無いモナ。二度と手を出そうとは思わなくなるくらいに痛めつけないと、また攻めてくるモナ」 「そりゃ、まあ」 80 :以下、名無しにかわりましてブーンがお送りします:2012/02/12(日) 21 06 40 ID 3kyIWTtMO 「大丈夫だお、太陽系軍は強い。シルフィールドだって、改良された機体に僕らみたいな大ベテランが2人づつも乗ってるお。楽には行かないだろうけどね」 「そうモナ。人工有機脳を搭載してるシルフィールドだって良く動くし、後ろには多くの戦闘艦やメイヴがいる、戦力的には劣らないモナ」 「そうだよな…しかし、2人か」 「え?」 「どうしたモナ?」 「いや、あのさ…笑わないで聞いてほしいんだが」 「なんだお?」 「…最近ずっと気になってるんだが…俺たちのシルフィールドに搭載されている脳って、本当に2つだけだよな…なんだか、3人目が乗っているように思えてさ」 「…それって」 唐突に、通信が入る。 《総司令部より全軍。平和的交渉は決裂、敵艦隊ならびに艦載機は戦闘態勢に移行。戦闘に備え、繰り返す、戦闘に備え》 全員、即座に口を噤み、感覚を研ぎ澄ませる。 自分達の限界が近い事は承知している、しかし自分達は戦わなければ、本当に、ただの亡霊以下になりさがってしまう。 なにより、かつて自分達が立っていた故郷を守りたい。人類を守りたい。 (子供を守るため、と言いたいけど) 81 :以下、名無しにかわりましてブーンがお送りします:2012/02/12(日) 21 12 23 ID 3kyIWTtMO かつて地球では、ほとんどの子供が人工子宮から生まれた時期があった。 自然に生まれる子供も勿論いたが多くは施設に集められた配偶子を徹底した遺伝子管理のもと組み合わせていた。 若いうちから軍人だったホライゾンは宇宙での事故により遺伝子が傷つき組み合わせる配偶子には不適当とされ、子供を残していない。 (軍に入る者の義務として、クローンならいたけど…無事に産まれたのかさえ知らないしなあ) そういえばと、ホライゾンは思う。 国連や現在の地球の人工妖精には少数だが、太陽系軍の人工妖精から、デザインや人格を流用した個体がいると言う噂があり…そういった個体は、兄弟姉妹と呼べるのか暇潰しに議論したことがあった。 噂が本当なら、ツンと遺伝子レベルで近しい個体が地球にいるとすれば、さらに気合いが入るかもしれない。 (なーんて) そもそも、皆パートナーと一緒に戦うのだ。 皆撃墜される気は無いし、逃げる事も無い。 初めから背水の陣、必然、これ以上ないくらい気合いは入っている。 だからホライゾン達の士気は、非常に高いのだった。 《偵察隊より警告、敵艦載機群、速力上昇》 《全軍に交戦許可する》 82 :以下、名無しにかわりましてブーンがお送りします:2012/02/12(日) 21 14 13 ID 3kyIWTtMO 《セクタD18担当tac301からtac304は正面、tac305からtac308は右翼迎撃せよ》 「行ってくるモナ」 命令を受けた一つ四機編成の戦術飛行隊が四つ、真っ直ぐ突っ込んでくる敵にぶつかるコースをとり、さらに四つが別方向からの敵に向かう。 《F12担当tac501からtac508、正面からぶつかり時間を稼げ》 《偵察隊より報告、敵に人型兵器が混じっている。警戒せよ》 ホライゾン率いる戦術飛行隊も加速、指示された敵へ向かった。 《tac302より各隊へ、巴戦は避け一撃離脱を心掛けろ》 地球から遠く離れた宙域で、電子戦に続き、艦載機同士によるミサイルの応酬が始まる。 続き 戻る
https://w.atwiki.jp/manjuu/pages/34.html
やるラヴ 無印 やるラヴ アンリミテッド オープニング やるラヴ 第一部「やる夫が国連軍横浜基地に配属されるようです」 やるラヴ オルタネイティヴ
https://w.atwiki.jp/us_zuishu/pages/11.html
瑞州合衆国連邦の歴史(ずいしゅうがっしゅうこくれんぽうのれきし)では、瑞州合衆国連邦の歴史について述べる。 + 目次 瑞州の黎明期 丹朝八洲 東西朝時代 東丹朝八洲・西丹朝八洲 五朝夷戎 潘朝八洲 継承戦争 柴朝八洲 濃尾の乱 南北諸朝時代 単朝弖南 瑞 嶺山の陣 沢谷合戦 封建制 北瑞 後罕 征南鎮府 前期戦国時代 豊河時代 後期戦国時代 笠置幕府 前史 前期笠置時代 中期笠置時代 後期笠置時代 共和制への移行 東西戦争 開戦 西部戦線 東部戦線 終戦 帝国主義 瑞州内戦 考古学 狩猟時代鉄器時代渡洋文明 前八洲 古八洲政権 玄鷲 丹 南部三王朝(南蛮) 東西朝期 西丹 東丹 東丹(再統一) 五朝夷戎 鷲戎 玄夷 東五朝 後八洲 潘 合罕 柴 南北諸朝 北朝津 南朝衛 統一国家 単 瑞 再分離 北瑞 後罕(南瑞) 柳朝時代 北瑞 征南鎮府 柳政統一 西海都護府 前期戦国 (地域国家分立) 豊河時代 御宿幕府 後期戦国 (地域国家分立) 設楽古海家 笠置時代 古海幕府 幕共移行 共和制瑞州 南瑞州共和連合 瑞州合衆国連邦 軍民対立 鹿毛川幕府 現代 瑞州の黎明期 古くから倭語→日本語を使用してきた。 約1万2千年前の氷河期の終わり頃、瑞州の地には、日本列島から島伝いに太平洋を渡って東進してきた日本人の1グループ(先瑞洲人)がいた。彼らは大型哺乳動物や中・小型哺乳動物を狩猟対象とし生活していた。大型の哺乳動物は季節によって広範囲に移動を繰り返すので、それを追って彼らもキャンプ生活を営みながら、頻繁に移動を繰り返していた(狩猟時代)。しかし紀元前8世紀ごろ、彼らは鉄器の製造を軸として力を蓄え、移住生活でなくても定住で生活が可能な生活にシフトしていった。その中で、血縁関係にある者たちが集まって「村」を作り、やがてはほかの村と争って支配下に加えることが多くなった(鉄器時代)。また、紀元前5世紀から6世紀頃、中国大陸から渡来してきたグループが漢字を伝えたため、土器~鉄器時代の記録を漢文を用いて後世に残している。また、中国大陸や日本列島からやって来る者は多く、漢字や瑞州語(日本語)は中国本土や日本列島と同等の進化を遂げることとなった。これは渡洋文明と呼ばれる。 しかし、村が巨大化するにつれて、住人の統率は難しくなっていったようで、ついには同じ村・民族同士でも争ってしまうような時代に突入した(紀元前2世紀頃)。ここで勝利した者を頂点として、その者が指導する「洲(読みはクニ)」と呼ばれる地域的政治集団が徐々に各地に形成されていった。 1世紀・2世紀前後に各洲が抗争を繰り返し、各地に地域的連合国家を形成した。中でも、8つの洲で構成される八洲政権が最も有力であり、これが王朝に発展したとする説が有力である。3世紀ごろに、八洲政権の首長(王)は豪族(地方首長)を従えて統一国家建設を進めた。この時期に、瑞州語を操り、瑞州地域の中央辺りに住む八洲人としての自覚が次第に芽生えたとされる。 丹朝八洲 丹朝 Tan dynasty 首都 豊都(遠淡海州豊比市)丹城(尾治州扶桑市) 公用語 古瑞州語 皇帝 225年 - 261年 黎文斌(開世帝) 298年 - 299年 幽縦帝 建国 225年 別称 丹、大丹、古瑞洲 国姓 黎 丹朝の始まりは黎文斌である。彼は八洲政権を構成していた8つの洲(黎洲、季洲、吽洲、沙洲、潘洲、駿洲、信洲、陸洲)を支配していた豪族全ての血を引く人物であり、豪族たちの合議により八洲政権の首長となった。これより以前は八洲政権は豪族たちの合議により政治が為されていたが、黎春光以後は彼の血筋の者が首長として政治を執り行うようになった。二代目の黎雅嘉は「八洲」の国号、「王」号に代わる「皇帝」号を設定した。これは対外的な権威付けであると考えられる。この後、黎文斌には開世帝の諡号が贈られた。 丹の王朝名は黎文斌の出身地である黎洲丹羽郡にちなむ。これは現在の尾治州扶桑市に相当する。 丹朝は地方豪族と中央の王(黎氏)による緩やかな連合体であったため、支配地域は現在の北西地方や中央地方の一部に限られ、全国的な統一政権とはならなかった。瑞州南東部にはテオティワカン文明やオルメカ文明、マヤ文明の勢力がおり、彼らは弖南(てなん)、織売(おるめ)、合罕(がっかん)の王朝を創始して丹朝に対抗した。また瑞州北西部には遊牧民族であるチチメカ族(玄鷲、げんしゅう)がおり、これも丹朝に対抗した。沖思帝の時代には南部の潘洲や沙洲が陥落し弖南の攻勢にさらされたため、豊都から丹城に遷都されている。丹城が選ばれた理由は、かつて黎洲の都であったからである。 八洲政権→丹朝 黎文斌(開世帝、225~261):各州の抗争を鎮圧し、丹朝を打ち立てた建国者である。 黎雅嘉(定道帝、261~284) 沖思帝(284~295) 礼熙帝(295~298):乙卯の乱(295~299)により実弟の幽縦帝に王位を追われてしまう。 幽縦帝(298~299):乙卯の乱(295~299)により実兄から王位を奪うものの、後に礼熙帝に敗北し、地方へ落ち延びる。 東西朝時代 乙卯の乱により皇帝を名乗る者が二人出現し、それぞれが国を東西に二分(東丹朝、西丹朝)したため、東西朝時代と呼ばれる。 東丹朝八洲・西丹朝八洲 東丹朝 br;Totan dynasty 首都 豊都(参河州豊橋市) 公用語 古瑞州語 皇帝 299年 - 300年 幽縦帝 建国 299年 別称 東丹、東洲 国姓 黎 西丹朝 Seitan dynasty 首都 丹城(尾治州扶桑市) 公用語 古瑞州語 皇帝 299年 - 321年 礼熙帝 建国 299年 別称 西丹、西洲 国姓 黎 乙卯の乱で敗走した幽縦帝はかつての丹の都である豊都に辿り着き、ここを本拠地として礼熙帝の軍に対抗した。勢力に劣る幽縦帝は圧政を敷き民衆からの反感を買ったが、弖南や織売、合罕の三国に贈り物をするなどの懐柔策を用い、後顧の憂いを断った(蛮丹の盟)。しかしながら305年、その圧政についに民衆の不満が爆発し、豊都の乱で幽縦帝やその長男は殺害され、後継者争いの火種となるのを避けるために幽閉されていた次男が帝位を継いだ。これが文賢帝である。文賢帝やその息子の凱介帝は善政を敷き、国を安定化させた。 一方西丹は、礼熙帝も誠崇帝も最初から善政を敷いていた。しかし霊繆帝は暗愚であり、放蕩生活に溺れた末、341年には玄鷲との戦いに敗れて戦死した。残された哀懐帝はまだ10歳と幼く、東丹の首脳部は西丹に和平交渉を持ちかけるも断られた。翌342年、ついに東丹が西進を開始し、丹城はあっけなく陥落して西丹は滅亡した。この際、礼熙帝統の皇族は皆殺しにされた。 こうして東丹は悲願の両朝統一を成し遂げたが、北西部には未だ玄鷲の勢力が残っており、凱介帝自身も345年に勢力争いに巻き込まれ暗殺されてしまい、統一期間はたった3年で終わった。 東丹 幽縦帝(299~305):東丹(幽縦帝統)の祖。 文賢帝(305~321) 凱介帝(337~345) 西丹 礼熙帝(299~321):西丹(礼熙帝統)の祖。 誠崇帝(321~337) 霊繆帝(337~341) 哀懐帝(341~342) 五朝夷戎 東丹が勢力争いで凋落すると、各地の有力者たちが活気づいて地方国家が分立した。玄鷲は、東丹の滅亡と時を同じくして西部に勢力を持つ鷲戎(じゅじゅう)、北東部に勢力を持つの玄夷(げんい)の二つに分裂し、またそれぞれが次第に八洲人と同化していった。南では特に力を持った五朝が分立し、北では鷲戎と玄夷が勢力を持っていた時代を、東西朝時代の中でも特に五朝夷戎時代と呼ぶ。なお、弖南や織売、合罕の南東部三国は南蛮と呼ばれ、東五朝の内に入らない。 東五朝、およびその従属国家 国名 姓氏 領地 備考 先衛(せんえい) 白姓衛氏 静駿州の一部、重賀州の一部、紀山州の一部 南北諸朝時代の「衛」と区別するため先を付けて呼ばれる。 白姜(はくきょう) 姜氏 先衛に従属 鄭(てい) 鄭氏 先衛に従属 朱参(しゅさん) 朱姓洪氏 遠淡海州南部、近海州の大半 蔡栄(さいえい) 隗姓蔡氏 朱参に従属 南宮(なんきゅう) 南宮姓 朱参に従属 朱単(しゅぜん) 朱姓 朱参に従属 梁崗(りょうこう) 梁姓馮氏 梁丹(りょうたん) 黎姓 遠淡海州豊比市一帯 梁崗の保護下 大武(たいぶ) 武氏 尾治州大武市一帯 梁崗に従属 林紫(りんし) 万俟姓公氏 西鄭(せいてい) 蒲姓鄭氏 林紫に従属 季潘(きばん) 季姓潘氏 林紫に従属 暁北(ぎょうほく) 許姓江氏 曾師(ぞうし) 戎姓師氏 暁北に従属。元は鷲戎族貴族 龍鳳(りゅうほう) 戎姓龍氏 暁北に従属。元は鷲戎族貴族 玄石(げんごく) 玄姓石氏 暁北に従属。元は玄夷族貴族 鍾諏(しょうしゅ) 鍾氏 暁北に従属 西朝 国名 氏族 領地 備考 木曾(きそ) 鷲戎族 中濃州木曾市一帯 東朝文化に迎合した鷲戎系貴族が八洲人化して建てた国家。 鳴波(めいば) 玄夷族 波島州一帯 東朝文化に迎合した玄夷系貴族が八洲人化して建てた国家。 潘朝八洲 潘朝 Pan dynasty 首都 豊都(参河州豊橋市) 公用語 古瑞州語 皇帝 408年 - 413年 潘国亮(雍宣帝) 471年 - 499年 孝哲帝 建国 406年 別称 潘、大潘、古瑞洲 国姓 潘 潘氏のルーツは玄夷族の地方貴族にまで遡るとされ、明確に記録上に現れるのは五代目とされる潘雲紀からである。鳴波国において、潘雲紀は軍の武将としての扱いを受けていたが、同時に野心高い人物でもあったようで、巧みな謀略を駆使してついには鳴波皇族の外戚にまで上り詰めた。その後彼は敵対勢力の放った刺客に暗殺されるも、その息子である潘国亮もやはり野心高く、鳴波に反旗を翻して独立。400年に潘の建国を宣言し、その二年後には鳴波を滅ぼした。 この新興勢力に対し五朝や木曾は警戒の色を強め、藍帆などによる連衡策(五朝および木曾を横に束ね、北の脅威である潘に対抗する)などが提唱された。一時は対潘大同盟が結成される事態となり潘は窮地に陥るも、潘国亮は宰相・胡又儒が提唱した合従策(潘と五朝・木曾で個別に同盟を結び、縦に連結する)を取り入れ、ピンチを乗り切った。その後潘国亮は国家を挙げて南下を開始し、五朝の一つである梁崗の保護下にあった丹朝の末裔国家・梁丹国および豊都を支配下に置くと、丹朝皇族家の末代である黎宜雅から禅譲を受けて雍宣帝として即位した。これを以って潘朝八洲が成立したと見なされるが、かつての丹朝の支配領域を再統一するまではこの後も数年掛かっている。 成立当時の八洲政権や丹朝、そして潘朝の支配地域は、現代瑞州の全域に及ぶものでなく、北西や南東などはまだ領域外だった。しかし南東の弖南や織売に対しては、紀元5世紀頃に潘朝による征服がなされ、支配下となった。特に5世紀前半は、北米・南米遠征も計画され、実際に侵攻が行われる(北狄・南蛮征伐)など帝国としての対外志向が強まった時期だが、5世紀中盤に入り、こうした動きも沈静化した。 八洲は5世紀前半から中華の法体系・社会制度を急速に摂取し、古代の中央集権国家としての完成を見た。 一方で、八洲は潘朝の統治下で安定したかのように思われたが、第三代皇帝である孝哲帝が後継者を決めないまま厠で急死したために、各地の領主たちが自らに都合の良い皇族を担ぎ上げて皇帝に推挙するお家騒動が勃発。やがては武力抗争にまで発展し、継承戦争が始まる。 継承戦争 後継者として有力と見られていたのは孝哲帝の弟である潘博然であり、博然のもとには豪氏や郭氏といった氏族が集まっていた。しかし豪氏と並ぶ有力氏族である秦氏は孝哲帝の外戚である黄鵬を推薦し、意見を異とした両勢力は武力に訴えた。 当初こそ潘博然の側が優勢であったが、450年に彼が急死(急性アルコール中毒と言われる)すると、その勢いは衰えた。翌年に黄鵬は即位を宣言したが、国号を「黄」に変え、継承戦争に功績のあった諸侯に封土を与えた上で、丹朝のような合議体による理想政治を目指したため、中央集権を理想とする秦氏の造反を招いた。このため、黄鵬は潘朝の皇帝と見做されていない。 一方で、孝哲帝の第二皇子である潘江春は、鎮北将軍として八洲北部防衛の任に当たっており、懐柔のために鷲戎族の貴族の娘と結婚し、姓を柴に変えていた。継承戦争勃発直後は北走した木曾国の残党(北曾)と戦っており、候補として名前を挙げられることはあっても、とても後継者争いに口を出せる状況ではなかった。459年に彼が戦死した後も嫡子の柴子良が引き続き任務に当たっていたが、467年に玄夷を鎮圧すると、黄鵬や秦氏に反発する豪氏や郭氏から皇帝候補として担ぎ出され、継承戦争に参戦した。 潘朝八洲 潘国亮(雍宣帝、408~413):東朝文化に迎合した玄夷系貴族が八洲人化した氏族の出身とされる。 粛武帝(413~437):南方や北方の異民族を攻め滅ぼしたり屈服させる。 孝哲帝(437~445):後継者を決めないまま急死した。 柴朝八洲 柴朝 Sai dynasty 首都 中城(常陸中州荊城市) 公用語 古瑞州語 皇帝 471年 - 480年 柴子良(明寧帝) 608年 - 610年 孝哲帝 建国 551年 別称 柴、大柴、古瑞洲 国姓 柴 継承戦争を終結させた柴子良は、潘朝が首都としていた豊都に入京すると、471年に即位した。 これまでの王朝である黎や潘は中華に大きく影響を受けた統治システムや社会文化であったのが、柴の翼公帝が即位した頃から次第に中華文化との剥離が著しいものとなり、人名なども瑞州独自のものとなっていった。 濃尾の乱 六代目皇帝・干虚帝は非常に愚鈍で好色な皇帝であったと伝えられる。国中の美女を集めては王宮で侍らせており、臣下に讒言する者があれば自ら手討ちにするか、そうでなければ無実の罪を着せて処刑するなど、恐怖政治を敷いた。一方で対外戦争に関しては「天賦の才」を発揮したとされ、潘朝継承戦争にどさくさに紛れて八洲支配下から独立していた弖南や織売に侵攻、これを支配領域に取り戻した。戦後の論功行賞により封土を加増された地方豪族も多くいたため、臣下の間では不満こそ溜まっていったが、それが大爆発を起こすような事態にはならなかった。 しかし、干虚帝が崩御し次男の元章帝が即位すると事態は一変した。元章帝の異母兄で長男の柴道成は、父の干虚帝に讒言したことと、母の身分が低いことで皇位継承順では下位に位置していたが、長幼の序を理屈として自身が皇帝になるべきと主張。それに賛同する名門の衛氏(尾治)や真浦氏(信濃)などを中心とする諸侯と共に蜂起し、609年2月に濃尾の乱が勃発した。 また、元章帝は父親の政治を反省し、荒廃した国内を立て直すために中央集権化を推し進めようとしていたのだが、その中に「諸侯の封土削減・皇帝直轄領の増加」という政策が含まれていたため、諸侯たちが反発したのも乱の原因であった。これらの政策は一般庶民たちからは支持を得たものの、諸侯たちにとっては不愉快なものであったのだ。 609年12月7日、柴軍は道成軍を急襲し、総大将の道成を殺害する(飯田の戦い)。しかし諸侯たちは新たに、衛氏の当主である衛士門を総大将とし、再び柴軍に挑んだ。戦上手として知られた衛士門の指揮に、柴軍は敗北を重ね、610年10月24日には鹿児島の戦いで柴軍が殲滅され、元章帝は戦死。残された皇族たちも捕縛・処刑され、ここに柴朝は滅亡した。 仲朝八洲 柴子良(明寧帝、471~480) 翼公帝(480~497) 和厚帝(497~508) 礼理帝(508~539) 安高帝(539~572) 干虚帝(572~577):悪政により求心力を失う。 元章帝(577~610):治世の末期に濃尾の乱が発生、衛氏・真浦氏連合軍に敗北し、殺害される。ここに柴朝は滅亡する。 南北諸朝時代 柴朝が滅亡した後、濃尾の乱で連合を組んだ衛士門・真浦秀志は反目し合い、それぞれが独自に王家の創立を宣言する。611年、衛氏と真浦氏の対立は武力衝突に発展し、庄内川の戦いで真浦軍が衛軍を撃破、衛氏は本拠地であった尾治を失い、南方に逃れることとなる。これを以て真浦氏の建てた北朝(津朝とも)と、衛氏の建てた南朝(衛朝とも)が並立する南北朝時代の始まりであるとする説が一般的である。 真浦氏・衛氏による南北朝並立の時代は30年足らずで終了した。後衛は本拠地や従属していた異民族の領域を失っても、他の氏族と結んだ婚姻関係を軸に良好な統治を行ったのに対し、津の統治は上手く行くことがなく、二代目の皇帝・真浦俊直の死後にさらに十三国に分離した。 南北朝時代 国名 姓氏 領地 備考 後衛(こうえい) 白姓衛氏 瑞州南部 五朝夷戎時代の「衛」と区別するため後を付けて呼ばれる。南朝衛とも。 津(しん) 海姓真浦氏 瑞州北部 海津、大津とも呼ばれる。 八代(やつしろ) 南宮姓全氏 梨甲州 北朝十三国の一つ。 武江(ぶこう) 隗姓播野氏 那橡州、埼武江州、神相州 北朝十三国の一つ。 周芳(しゅうほう) 周姓齋氏 山防州 北朝十三国の一つ。「すわ」とも。 羽州(うしゅう) 秋姓 秋羽州 北朝十三国の一つ。 楠成(なんじょう) 成姓鄭氏 濃波州、林播州 北朝十三国の一つ。 常陸(ひたち) 成姓鄭氏 常陸中州、能石州、嶺狭州 通常北朝十三国とは数えられない。のちに鄭橘、嶺に分裂する。 鄭橘(ていきつ) 成姓鄭氏 常陸中州 北朝十三国の一つ。 嶺(れい) 干氏 能石州、嶺狭州、波島州 北朝十三国の一つ。 対島(つしま) 朱姓 岩陸州 北朝十三国の一つ。 武遠(ぶえん) 武姓杜氏 中濃州、濃前州 北朝十三国の一つ。 高(こう) 高姓 三勢州、嶋海州 北朝十三国の一つ。後に単朝に組み入れられるが、その間に主君の愚鈍を理由とする「飯高崩れ」が発生し、統治者が家臣だった八重氏に代わる。 板(ばん) 板姓城氏 重賀州 北朝十三国の一つ。 淡海(あわうみ) 冷姓木菱氏 尾治州、遠淡海州、近海州 北朝十三国の一つ。 紀州(きしゅう) 井姓 紀山州、静駿州 北朝十三国の一つ。 単朝弖南 単朝 Zen dynasty 首都 岡山(吉備作州岡山市) 公用語 弖南語上代瑞州語 皇帝 610年 - 654年 単富賢(忠壮帝) 737年 - 740年 慎舒帝 建国 551年 別称 単、弖南 国姓 単 柴は対外戦争で領土を拡大し、南蛮と呼ばれていた異民族である弖南や織売を従属させ、各地域に督部を置いて彼らを支配していた。しかし濃尾の乱の混乱で、支配地域に置かれていた督部の権力も次第に減衰していた。609年末、備州の弖南族・羅國辰が蜂起し、備州督部を攻め滅ぼすと、弖南国家の再建を宣言した。しかし羅國辰は未だ若く、後継ぎもないままに、翌年正月の酒の席で急死する(死因は急性アルコール中毒とみられる)。困り切った弖南の各族長たちは、羅國辰の従兄であり、勇将の誉れ高かった単富賢を擁立し、皇帝に即位させた。これを以って単朝が始まったとみられる。 富賢は国力を温存するために、向かってくる敵には対処するものの、南北朝の争乱で混乱していた八洲への介入は避けていた。また同盟や契約を駆使し、北朝十三国のどれかに力を貸すなどの方針を以って力を伸ばし、次代の誠崇帝の時代、670年代前半には織売や合罕も糾合して一大勢力となっていた。社会基盤も整い、期は熟したと判断した三代目の彭強帝は八洲への侵攻を開始。721年までには南北朝全ての領域が単朝の支配下に入り、八洲は初めて異民族により統一された。 しかしながら八洲人の反抗も根強く、単朝の支配も安定しなかった。729年に八洲人官僚である許政宏と趙義憲が許趙の乱を引き起こすと、仁容帝は武勇で知られ単に忠誠を誓っていた八重伸隆を鎮圧に派遣した。一旦は反乱の鎮圧に成功するものの、732年に今度は伸隆が反乱を起こし(単勢戦争)、有効な対処策も見つからないままに単の支配領域はみるみる削り取られ、740年に首都の岡山が陥落。幼少の慎舒帝は行方不明となり、ここに単は滅亡した。 瑞 瑞朝 Zui dynasty 首都 鈴鹿(三勢州鈴鹿市) 公用語 瑞州語 皇帝 740年 - 749年 八重伸隆 813年 - 839年 八重忠隆 建国 740年 国姓 八重 北朝十三国の一つ・高の重臣で、数多くの周辺諸国との戦争で武勇を轟かせていた八重伸隆は、主君である高一輝の愚鈍を理由に飯高崩れを引き起こす(724年)。一輝は就寝中に襲撃、暗殺された。大河内氏は一輝に嫡子がいなかったため廃絶となり、また裏工作により高国の家臣たちの支持も集めた伸隆は、同国の実権を握った。伸隆は、急速に力を伸ばしてきた単へ歯向かうことは得策ではないと判断し、単へ帰順した。その結果、仁容帝にその武勇の才を見込まれ、伸隆は単の重臣として召し抱えられた。 729年に八洲人官僚である許政宏と趙義憲が許趙の乱を引き起こすと、仁容帝は伸隆を鎮圧に派遣した。許軍や趙軍に対する二方面作戦を強いられ苦戦するものの、伸隆は一旦は反乱の鎮圧に成功する。しかし単の支配能力の低下や腐敗を見て取った伸隆は、今度は自分が単に反旗を翻した(単勢戦争)。八重軍叛逆の報に、仁容帝は驚きのあまり吐血、失神し、そのまま崩御した。次代の逸淵帝は、戦上手で知られる伸隆に対し有効策を取ることができず、また勢いに乗る伸隆が単の重臣たちを大量に調略したために、瞬く間に支配地域を失っていった。逸淵帝本人も737年に崩御し、後を幼子の慎舒帝が継いだものの、残った家臣たちにそれを守り立てて単の支配を復活させる力はもう残っていなかった。 740年に単の首都である岡山を攻め落とした伸隆は、皇帝の座に就き(八重戴冠)、瑞朝を新しく開いた。首都は鈴鹿(三勢州)。「瑞」、つまり天が善政に感じてくだす、めでたいしるしへの期待としてこの国号を設定したと考えられる。またこの頃になると、皇帝の「諡号」の伝統が消失し、皇帝名は「本人の名+帝」で表記されるようになっていった。この時読み方としては、名の部分が全て音読みで読むことが非常に多い(例:八重伸隆(やえのぶたか)→伸隆帝(しんりゅうてい))。 即位後、伸隆帝は次なる標的を、許趙の乱や単勢戦争のどさくさに乗じて独立した小国家群を標的を定めたものの、瑞の勢いを既に知っていた数か国はすぐに降伏した。伸隆帝は戦場での苛烈さや野心の高さ、計算高さとは対照的に、配下に対しては慈悲深い人物でもあり、投降した君主家である城氏と木菱氏らを家臣団に加え入れている。降伏したいずれの主君筋も伸隆帝は厚遇したことから、家臣団の結束力はより強いものとなった。そしてこれは瑞の政権運営の原動力となった他、瑞の重臣格の家は貴族となり、現在でも存続しているような名家となった。しかしながら、降伏を拒んだ国に対しては、伸隆帝は徹底的な制圧戦を展開した。 747年に鄭橘、武遠を滅ぼした伸隆帝は、高くそびえたつ山々に囲まれうかつに手出しのできない後嶺と、未だ統一のされていない西海半島地域を天秤にかけ、748年に半島征伐を決意。総動員した船上戦力と、半島の付け根にある梨甲地域を支配する八代を攻め落としてからなだれ込む地上戦力の二軍を分けた伸隆帝は勝利を確信していた。しかし、菊多沖海戦の勝利の報に喜んだのもつかの間、自らも山々に囲まれて飛び出てくることはないだろうと踏んでいた後嶺が侵攻を開始し、波島地方を占拠したという急報が届いた。波島は首都の鈴鹿の目と鼻の先であり、しばし逡巡した伸隆帝は、船上戦力を引き戻して嶺へ急行させるも、749年に後嶺軍と向かい合った御嶽山の陣中にて、風邪をこじらせて没してしまう。遺言通りに帝位と家督を相続した嫡子の芳隆帝は対嶺戦の続行を指示しつつ、八代方面軍の指揮官の真方頼実に和睦を指示。ひとまず西海半島への戦役は中止され、瑞は後嶺との戦争に全力を投入することとなる。 嶺山の陣 750年、瑞軍上層部(柳営と称される)は集結しつつある全軍を三手に分け、山防方面から嶺狭を攻撃する嶺狭方面軍、常陸中や濃前方面から能石を攻撃する能石方面軍、重賀や三勢方面から波島を攻撃する波島方面軍が編制された。それぞれの方面軍大将には鎮北将軍、鎮西将軍、鎮東将軍の位が与えられ、それぞれ右藤吉胤・藪上邦茂・衛昌晃の三人が将軍職を拝命した。また、内政統治に忙しい皇帝に代わり、継続して集中的に全軍を指揮できる階位として輔国大将軍の位が新設され、大鳥井重輝が大将軍位に就いた。輔国大将軍は柳営のトップであり、軍政・軍略面に関して非常に大きな権限を有していた。 同年十二月、にらみ合いを破り、帝国軍が嶺の勢力範囲に進出するも、後嶺軍は地の利を最大に活かしてこれらを撃退。何度目かの侵攻失敗に際し、一度鈴鹿に帰っていた芳隆帝から(激励のつもりで)視察を行うという報告を受けた重輝は、皇帝の到着までになんとかして後嶺を攻め滅ぼさないといけないと焦り始め、ついには自身が陣頭指揮を執ると宣言。機動力を重視し、重装備で移動速度の遅い近衛兵の護衛を付けずに出撃するも、後嶺軍伏兵の挟撃に遭い討ち死にを遂げる。後任には木菱宜之が着任した。 木菱はこの時数え年で76歳という高齢であったが、十三国時代を淡海の王として生き抜いてきたその老練的な手腕は衰えを知らず、的確に軍を動かすことで後嶺軍を徐々に後退させた。752年4月、能石を制圧したことで嶺狭・波島で後嶺が分断されてしまい、「瑞帝国内での自治を認めてくれないなら戦うまで」という消極的主戦論を唱える嶺狭の後嶺(西嶺)と「帝国の首都・鈴鹿のある三勢まであと少し、攻め込めば勝てる」という積極的主戦論を唱える波島の嶺(東嶺)の二つに分かれた。東嶺がこのような主張をしたのは、東嶺の成り立ちとして、もともとは開戦時に嶺本土から出撃して波島を占拠した遠征軍が主体となって統治する軍事国家であったからで、冷静な判断を下せず血の気が盛んだったことによる。東嶺はもとより、瑞洲の中央政権による統一を目指す芳隆帝としては西嶺の主張も受け入れるわけにはいかず、結局は二つを相手にし戦うこととなってしまった。翌年、三勢から出撃した皇帝直下の近衛軍と鎮東将軍の軍勢の挟撃にあい東嶺は滅亡。残る西嶺もよく抵抗したものの、760年までには降伏した。 8世紀から9世紀にかけて、戦乱に巻き込まれた地方豪族や有力農民は、勢力の維持・拡大を図り、武装するようになった。彼らはしばしば各地で紛争を起こすようになり、政府は制圧のために中下級の貴族(公家と呼ばれる)を押領使や追捕使に任じて、各地に派遣したが、中には在庁官人となってそのまま定着するものも現れるようになった。これが武士の起こりである。武士は家子や郎党を率いて戦を繰り返したが、やがて連合体である武士団へと成長した。中でも中央貴族の系譜を引く平沢氏と熊谷氏は、軍事貴族である武家となって、武士を二分する勢力に成長した。また、戦時にのみ設置される最高司令部である柳営が、嶺山の陣における占領地域で軍政を敷いたことで、武家の領域支配の先例が確立された。これは後に、領域統治主体が皇帝から、軍を直接指揮できる将軍に移っていく遠因となる。 八重尾朝瑞洲 八重尾伸隆(740~749) 八重尾芳隆(750~758) 八重尾正隆(759~774) 八重尾憲隆(775~812) 八重尾忠隆(813~839) 沢谷合戦 沢谷合戦期(たくこくがっせんき)とは、武家の二強として成長した平沢氏と熊谷氏による対立、戦乱の時代である。瑞朝の皇帝・忠隆帝が後継者決めに腐心している最中に亡くなってしまったため、忠隆帝の弟である清隆を推す平沢氏(能石平沢家)と、忠隆帝の側室が産んだ年少の遺児、徳千代を推す熊谷氏(参河熊谷家)で対立が勃発した。その対立は次第に軍事的な衝突となっていき、統一国家・瑞朝は瓦解してしまった。 戦乱は150年以上にも及び、当然の帰結として後継者たちもみんな死んでしまって、沢谷合戦は後継者決めの戦争から平沢氏・熊谷氏の権力闘争という構図に変化してしまっていた。1001年、鉢伏山の戦いで平沢氏が滅ぶと、名実ともに熊谷氏が瑞洲のトップの座に就いた。しかしこの混乱に乗じ、合罕の末裔・乙孩氏が自身の領地で独立を志向。やがて古代南蛮や瑞の伝統を糾合した罕(後罕)が成立し、熊谷瑞洲と拮抗を始める。 封建制 10世紀から12世紀にかけて、旧来の皇帝を中心とする古代の律令国家体制が大きく変質し、武士の熊谷氏らが実権を掌握する武家政権が保守的貴族勢力と拮抗しながら国内を統治する中世国家へと移行した。熊谷氏が継承した瑞(北瑞)と、後罕(南瑞)が併存する体制はしばらく続いたが、1153年には北瑞が設置した軍事機関・征南鎮府が後罕を滅ぼした。 北瑞 瑞 Zui dynasty (Northern) 首都 京(瑞京府) 公用語 瑞州語 君主 1001年 - 1015年 熊谷辰秋 1138年 - 1161年 熊谷利秋 1172年 - 1175年 熊谷信秋 成立 1001年 別称 瑞洲、熊谷瑞洲 熊谷氏は八重氏から帝位と国を継承したが、実体としては諸侯の連合体であり、熊谷氏は封土や官位を諸侯に分与する権限こそあったものの、これまでの皇帝のような強力な統治権限を全土に行使することはできなかった。このことから、多くの「洲(クニ)」が連帯して開かれた王朝であることを示す「瑞洲」が別称として用いられるようになり、これが現在の「瑞州」という国名に繋がる。熊谷氏は自らの直轄地のみに直接の権力を振る得たが、このときその直轄地かつ拠点であった近海州の一部地域を「京」と改称し、首都とした。現在の瑞京である。また皇帝の位階もだんだんと廃れていくことになる。 それでもなお、第6代・熊谷利秋の頃には王朝は全盛期を迎えた。利秋は制度改革を進め、辺境防備を指揮する、最も信頼する重臣を配置した地方行政拠点である「鎮府」、それを輔弼する諸侯による「都護府」を配置した。鎮府の長たる将軍には大武家が抜擢され、東域鎮府(安東将軍:桜町家)、西域鎮府(安西将軍:城衛家)、南域鎮府(寧南将軍:朱雀山家)、北域鎮府(寧北将軍:深草家)の4鎮府が置かれた。1144年、利秋は後罕の打破を決意。南域鎮府が攻勢を主眼とした編成の「征南鎮府」に改編され、今までにらみ合いの状態であった対後罕戦線が再燃する。 北瑞 熊谷辰秋(1001~1015) 熊谷光秋(1016~1036) 熊谷康秋(1037~1059) 熊谷邦秋(1060~1103) 熊谷昌秋(1104~1137) 熊谷利秋(1138~1161) 熊谷宗秋(1162~1171) 熊谷信秋(1166~1175) 後罕 罕 Kan dynasty 首都 門府(穴門州穴門市) 公用語 瑞州語 皇帝 1003年 - 1018年 乙孩正嗣 1145年 - 1153年 乙孩崇洋 建国 1003年 別称 井、瑞洲 国姓 乙孩 南部瑞洲を拠点とした後罕は、首都を穴門国・門府と定め、郡県制を採用した。 1144年ごろから北瑞の再侵攻が始まり、またその先鋒を担った征南将軍の朱雀山義広が無類の戦上手であったこともあり、後罕は次第に追い詰められていく。門府まで北瑞が迫った1153年7月18日、皇帝・乙孩崇洋が陪臣の外所貴彰に殺害され、ここに後罕は滅亡した(玄武門の変)。 後罕 乙孩正嗣(1003~1018) 乙孩正公(1019~1031) 乙孩正信(1032~1057) 乙孩俊康(1058~1078) 乙孩宗俊(1079~1085) 乙孩武嗣(1086~1121) 乙孩正洋(1122~1144) 乙孩崇洋(1145~1153) 征南鎮府 征南鎮府 Margrave toward Southern Region 首都 豊河(参河州豊川)→門府(穴門州穴門市) 公用語 瑞州語 征南将軍 1144年 - 1179年 朱雀山義広 1179年 - 1389年 保坂康正 建国 1175年 別称 東関柳営、朱雀山政権 北瑞第6代・熊谷利秋が進めた制度改革により誕生した、辺境防備を指揮する、最も信頼する重臣を配置した地方行政拠点である「鎮府」のうち、南域鎮府が前身である。南域鎮府の長、寧南将軍には朱雀山勝広が任じられ、他の将軍位ともども世襲することが定められた。1143年に勝広が病死し、嫡男の義広がこれを継いだ。翌年、南域鎮府は攻勢を主眼とした編成の「征南鎮府」に改編され、義広も「征南将軍」となる。以降、義広は対後罕戦で前線を張り続けた。 玄武門の変後、義広は後罕の謀反人である外所貴彰を鳥屋野潟の戦いで討ち取り、門府を掌握した。旧後罕の領域に、征南鎮府の管轄下にある都護府を大幅に増やしたため、朱雀山氏の勢力自体も急成長した。軍閥「征南鎮閥」として勢力を拡大し続ける征南鎮府を危険視して、熊谷利秋は征南鎮府を南域鎮府に、征南将軍を寧南将軍に戻し、戦時編成を解除する勅令を出したものの、義広は「南蛮の脅威一掃され難し」としてこれを拒絶した。しかし義広は、自身が上京しての釈明と、血判の作成、嫡男の政広を人質に差し出したことにより、利秋の怒りを鎮めることに成功した。 1161年に利秋が死去すると、義広は手のひらを返したように、熊谷氏の許可なしに有力武家との婚姻仲介を進めるなど、血判の誓約内容に違反した行動をとるようになる。利秋の後を継いだ宗秋が軍備を整えているのを知るや否や、1164年、義広は管轄下の都護府に出陣命令を発し、京へ向けての進撃を開始した。数度の会戦を経て、1166年、宗秋は京を放棄し、東域鎮府を頼って落ち伸びた。義広は京へ入城し、宗秋のはとこにして幼年の信秋のみを残して、熊谷氏の縁戚を一人残らず探し出し殺害するか、または出家させた。 以後、義広は信秋を擁立した政権を確立し、寧北将軍として北域鎮府を率いていた深草家もこれに同調。宗秋を奉じる東域鎮府(桜町家)、西域鎮府(城衛家)との争いになった。1171年には那張の戦いで宗秋を戦死させ、戦う理由が消滅した二家とも和睦。信秋を傀儡とする体制がこのまま続くかと思われたが、1175年、信秋が流行り病をこじらせて、後継ぎを残さぬまま死去し、熊谷氏が断絶してしまう。 もはや圧倒的な武力を前に各将軍家も朱雀山家に従属せざるを得ず、北瑞の政府官僚も征南鎮閥出身者に挿げ替えられたことで、朱雀山家の天下が一時は確定した。もはや義広は帝位を必要とせず、将軍による武家政権(東関柳営)が瑞州の史上初めて成立した [(*1)] 。しかし代替わり時の混乱を狙った政権奪取という、義広が成し遂げたこの偉業は、むしろ悪しき先例として後世に影響を及ぼした。義広が死去した1179年、朱雀山家の暴挙に不満を抱いていた、西域鎮府管轄下の西海都護府を率いる城衛守隆 [(*2)] が反乱を起こし、主君にして主家筋の安西将軍・城衛秀勝を殺害し、西海半島を自身の勢力下とした。柳営によって全国が統一された期間は4年ほどであり、以後しばらくの間、西海都護府勢力と征南鎮府勢力が並存する。 征南将軍 朱雀山義広(1144~1179) 朱雀山康広(1179~1185) 朱雀山武広(1185~1199) 朱雀山秀広(1199~1207) 朱雀山泰広(1207~1209):最期まで後継者を明確に指名しなかったため、後継者争いである二条の乱を引き起こす。 朱雀山正二郎(1209~1214):和良の遺児であるが、二条の乱に敗れて戦死。 朱雀山清広(1214~1215):泰広の弟。二条の乱には勝利するも、稲沢の変で重臣に謀殺される。 東関柳営は5代目・泰広が急死し、後継者を明確に指名しなかったため、後継者争いである二条の乱が勃発する。泰広の遺児である正二郎はまだ2歳であったため、泰広の弟である清広を推す重臣・相野田重浩と、正二郎を推す屋宜正芳の間で意見が割れたためである。二条の乱は当初屋宜軍が優勢であり、正二郎は一度は正式に将軍位に就くが、西海都護府の介入もあり、戦局はだんだんと悪化、泥沼化した。1214年12月、正二郎は陣中にいたところを間諜(スパイ)によって暗殺される。流石に非道な戦い方であると、勝ったはずの清広・相野田軍の元から離反者が続発し、清広は一度は念願の将軍位に就いたわけであるが、翌年には重臣の裏切りに遭い謀殺されてしまう(稲沢の変)。 朱雀山家の本家筋が絶え、東関柳営も内乱によって瓦解すると、各地の諸侯が自らの覇を唱えて争いを始めた。地域国家が乱立する前期戦国時代が始まって、いよいよ収集がつかなくなった。 前期戦国時代 13世紀から15世紀までの時期には社会の中世的な分権化が一層進展したが、政争による統一政権の衰退を決定機として、13世紀前半頃から大名勢力による地域国家の形成が急速に進んだ(戦国時代)。この戦国大名たちは、もともとは封建制によって各地を領有した武家であり、その武力を背景に、自国こそが正統な統一国家であることを主張した。この地域国家の形成は中世社会の再統合へと繋がり、一度は御宿家による統一政権が発足した。一般的に、二条の乱からこの御宿幕府の成立までの時代を「前期戦国時代」と呼ぶ。 豊河時代 御宿幕府 Mishuku Shogunate 首都 豊河(参河州豊川市) 公用語 瑞州語 上将軍 1391年 - 1399年 御宿直隆 1448年 - 1453年 御宿尚徳 建国 1391年 別称 瑞洲 上将軍 御宿直隆(1391~1399) 御宿仁隆(1399~1414) 御宿正隆(1414~1427) 御宿有隆(1427~1432) 御宿知徳(1432~1440) 御宿克徳(1440~1448) 御宿尚徳(1448~1453) 朱雀山将軍家の傍流である参河御宿家は、前期戦国時代末期に御宿直隆という名将を生み、数々の合戦を経て御宿家の天下を勝ち取った。彼は朱雀山将軍家から征南将軍位を引き継ぎ、次いで輔国大将軍位への昇格を主張した。この時代、輔国大将軍位への任命権者である皇帝位は既に無く、(既に誰も名乗っていなかったが)他の3将軍位の請求権を持つ加州深草家、近衛桜町家、岩陸城衛家と協議した結果、皇帝を輔弼する「輔国」大将軍は不適当であり、将軍位より上の「上将軍」位への就任が適当であるという判断が下された。この結果、御宿直隆は上将軍職に就き、1391年に御宿幕府を開いた。以後、御宿幕府の滅亡までを、政庁が置かれた豊河にちなみ「豊河時代」と呼ぶ。 上将軍家である御宿家は、家臣の大名である下坂直孝が豊河に攻め入ったことによって、1453年に滅亡した(近衛門の変)。当時の上将軍であった尚徳はまだ7歳であり、補佐すべきである公家たちは誰が実権を握るか抗争しており、腐敗していた政権に見切りをつけた下坂によって、周りの公家ともども上将軍は打ち倒されてしまったのである。尚徳は自害に追い込まれた。 後期戦国時代 最終盤では権力はほぼ無きに等しい状態であったものの、幕府というストッパーを失った瑞洲国内では再び戦乱が拡大し、16世紀末に古海武利によって瑞洲の統一政権(笠置幕府もしくは古海幕府)が樹立されるに至り、近世へと移行した。 前期を含めた戦国期においては、北朝十三国の末裔を自認するなど、特徴的な国の出現も散見される。例えば後期戦国時代に、嶋津国答志郡付近で興った「後鳳」は、五朝夷戎時代から続く名家が指導する、土着の武士層による一揆のもと成立したとされ、今でいう選挙王政を採用するなど、かなり特異である。 笠置幕府 前史 古海氏 設楽古海家:主流で、設楽家とも称される。自分たちでもその名乗りを使っていたようであり、古海武清が「設楽武清」と記名した書状が現在でも残っている。 八名古海家:八名家とも称される。 額田古海家:額田家とも称される。 渥美古海家:渥美家とも称される。 碧海古海家:碧海家とも称される。 三勢古海家:本司名氏から改名した頃に分家し、三勢国に土着し三勢氏・三勢家を名乗った。 前期・後期を通した戦国大名家の中でも、かつての王家、皇帝家の末裔(とされる者)を王に戴いて、大名自体は幕府を開き実権を握るという場合や、先祖に将軍家があると主張し、将軍家としての復権を期して幕府を再興させる場合があった。後者の最もたる例は古海氏である。古海家の系図を辿ると、12世紀ごろに安東将軍として東域鎮府を管轄した、近衛桜町家にまで遡ることができる。戦国期の頃には既に、王や皇帝などの「官位を授与する目上の存在」は国内に消失しており、古海氏や他の氏族が将軍家と名乗っても(王家の自称と同様)それは自称に過ぎず、本来は意味を為さないはずであった。しかしながら、豊河時代初期に、「鎮府将軍家」と呼ばれるかつての4将軍家が合議した結果、4将軍より目上の「上将軍」位が認められ、上将軍家をトップとした幕政・官位体制が確立した。諸侯は上将軍に就任し天下へ号令せんと、様々な手段で上将軍就任への正当性を得るのに奔走した。 古海氏は、元は近衛桜町家の傍流であり、豊河時代には本司名氏(もとしなし)を名乗る幕臣の立場にあった。参河国内に領地を有していたものの、国境の設楽郡などを有するにとどまり、あまり表舞台には立たない一族であった。しかし、その後の後期戦国時代を巧みに生き抜き、15世紀まで家名を存続させていた。1512年、若くして設楽古海家の当主となった古海武清は、先祖が将軍家であり、後任者がいなくなったが故に、自らも将軍となる権利があるとして征夷大将軍を自称。その天才的な内政手腕と軍事能力を以て他国を次々と屈服させ、参河・紀山・嶋海を制した。武清は親戚一同をまとめ上げる能力にも秀でていたようであり、効果的に軍を動かし戦国の覇者となるために、それまで直接指揮を行っていた古海軍を方面ごとに分け、方面軍司令官には八名・額田・渥美・碧海の各家の当主(幼少の場合は代理)を据えた。しかし1534年、参河国豊邦において、些細な出来事で恨みを持った家臣・新岡信久に暗殺されてしまった(豊邦の変)。新岡は逃亡したものの、父親暗殺の報を受けた武清の嫡男・正武が参河国内に非常線を張り、あえなく捕縛、処刑された。 古海氏当主の座は正武が継ぎ、父親の方針を引き継いで対外領土拡大政策を採った。正武は非常に開明的な思想を持っていたようで、嶋海国の港が支配下にあるのをいいことに、重臣・浦谷重成を正使として欧州へ使節を送り、膨大な知識を入手した(浦谷遣欧使節団)。この使節団には欧州の見分や知識の入手以外にも外交交渉の使命があったようだが、不発に終わったようである。正武は静駿・筑紫・薩摩を平定している最中にも欧州の研究を行っており、家臣団ともども欧州の優れた軍略に驚き、自国に適合するように取り入れることを計画。この軍制・戦略改革は成功し、古海軍は瑞洲や欧州のいずれの戦略にも似ることのない、独自の軍制度を確立。精強無比の強さを誇る最強の軍へと変貌した。よく訓練され、優れた指揮官に率いられた古海軍は連戦に連勝を重ね、1587年に正武が病没する頃には尾治以南の南瑞洲や三勢国を支配下においていた。 前期笠置時代 笠置幕府 Kasagi Shogunate 首都 京(瑞京府) 公用語 瑞州語 将軍 1599年 - 1617年 古海武利 1767年 - 1775年 古海武広 成立 1599年 別称 古海幕府 正武の病没後、家督は嫡男の次男・英武が継いだ。英武も父と同じく領土拡大政策を採り、間崎朝後嶺や後八重尾朝、鳴神朝と言った名門大名家を撃破し、1597年には北海半島以外のほぼ全土を掌握していた。しかし戦ばかりに明け暮れ、正室さえ取らなかった英武には当然として嫡子が無く、1598年に英武が膵臓癌(と思われる症状)で没すると後継者問題が急浮上する。 後継者問題で倒れた王朝はこれまでにも数多くあったため、重臣団は平和裏に後継者を確定することを誓った。会議の結果、碧海家に養子として出されていた英武の異母弟・碧海武利を設楽家に呼び戻すことで一致。武利はこれを快諾し、1599年に征夷大将軍への就任の儀を執り行い、政庁を京の笠置町に置いた。これを以って笠置幕府が正式に成立したと見做される。 中期笠置時代 後期笠置時代 19世紀中ごろに入り、欧米列強との接触が飛躍的に増えると、列強各国に対する他者意識の裏返しとしての「瑞洲」・「瑞洲人」意識がさらに強まり、ほぼ現代の「瑞州」・「瑞州人」意識と一致するまでに至った。大航海時代以降、米州各国が欧米列強の植民地とされる中で、瑞州が欧化政策を維持しつつ独立を長く保ったことは、後の国民国家意識にそのまま繋がる民族・国民意識の醸成をもたらし、結果として革命戦争以降の近代国家建設がスムーズに行われる基礎となった。また、この時期から瑞洲の「洲」の文字が、書き換え字である「州」に変わっていった。以前より「瑞州」表記は散発的に確認されていたが、時代の流れとして「瑞州」表記に置き換わっていったのはこの時代が初めてである。 共和制への移行 古海幕府は20代・275年もの治世を保っていたが、欧米列強からの文化流入や機械技術の伝授に加え、欧米列強の「市民自治」「共和制」の考えが輸入されると、「ただ一人の強いリーダー」の行う政治に限界を感じたのか、20代将軍・古海武広は「共和制瑞州」の構想を諸邦の首長たちに伝え、共和制瑞州の発展を願いながら、1775年に幕府の幕を自ら下し(天治奉還)、臨時連邦政府が形作られ、共和制瑞州が本格的に始動するための準備を始めた。しかし共和制瑞州構想で触れられた、共和制のトップである大統領職を狙って、南東地域の旧藩主たちや公家の末裔たちが団結し、「独立宣言」を発して、参河・岡豆以東9州が南瑞州共和連合として蜂起した(1776蜂起)。彼らは大統領職に、中世の絶対王政君主レベルの権限があると勘違いしており、君主を話し合いで決めるものの、決まった後は政治のすべてをその君主や付属機関に委ねると解釈していたのである。その為、瑞州全土から希望者を募って大統領決めを行うまでは合議制として、南瑞州共和連合は明確なリーダーを定めなかった。一方、北西地域の首長たちは共和制・大統領制を正しく理解したのに加え、瑞州の風土では連邦制の導入が相応しいとし、諸邦を「州(シュウ)」として再編。また、1776年7月15日に初の民主的な大統領選挙(第一回瑞州大統領選)を行い、思想面での建国の父と呼べる古海武広を大統領に据えた。古海は諸州規約を制定し、国号を「瑞州合衆国連邦」と設定し、旧幕府軍や北西諸邦の兵を集めた近代化軍(瑞州合衆国軍)を組織。自分を総司令官、部下の武官を各方面軍司令官のポストに据え、南瑞州共和連合との全面対決に進んでいった。 東西戦争 開戦 十数年に渡る緊張関係の末、1791年に東西戦争(革命戦争、Zuish Civil War)が開戦。この戦争では瑞州史上初めて近代的な機械技術が主戦力として投入された。4月12日に東軍(共和連合軍)が西軍(合衆国軍)の前線基地(紀山-参河州境)である孝子峠の要塞を砲撃して戦端が開かれた(孝子峠要塞の戦い)。古海は合衆国に残ったすべての州に孝子峠要塞などの奪回を呼び掛け、軍事的な協力を要請した。 4月19日には古海が東部海岸線の海上封鎖を宣言した。この封鎖は大西洋岸から太平洋岸までにわたり、東部経済を締め付けていった。この海上封鎖を解かんと、共和連合海軍による散発的な攻撃や砲撃が合衆国海軍に向け行われたが、いずれにおいても封鎖を解くことはできなかった。 戦闘名称 月日 州 勝者 特記事項 孝子峠要塞の戦い 4月12日 紀山州 東軍 洞海湾砲戦 4月19日 筑紫州 西軍 葦毛湿原の戦い 4月19日-21日 参河州 西軍 西部戦線 東西戦争は広大な地域で戦われたが、主な戦線としては西海岸の西部戦線と、中央山脈以西の東部戦線とに大別することができる。そして、東西戦争の最も主要な戦線であり、規模の大きな戦闘が繰り返し起こったのは西部戦線の方だった。これは、首都である瑞京が存在する西海岸の方が開発が進んでおり人口も多かったうえ、西部の中心都市の磐田市・東部の中心都市の御陵下市のどちらもが西海岸側に位置していたためである。さらに、両都市間に険しい山岳などの障害になる地形も少なかった。また、共和連合と合衆国連邦どちらも瑞京を首都として定義し、自然と両軍ともに相手の中心都市や瑞京をめざし進撃することが多かった。こうして、西部戦線(特に瑞京付近)で激しい戦いが多く繰り広げられることとなった。 孝子峠要塞の戦い以後、両軍共に軍隊の創出で大わらわであった。古海大統領は反乱軍を抑えるために7万を超えるの志願兵の召集を命令した。発足したばかりの陸軍には、十分な戦力といえるのは16000名の兵士程度しかいなかったのだ。陸軍は旧幕府軍からの古参兵である年長の玉田克己中将に指揮されていた。共和連合の方は、一握りの旧幕府軍士官と兵士、そしてかつての民兵団の一部が東軍に加わった。東軍の体系は各州によって整えられた。しかし、強い中央政府に対する各州の嫌悪感で助長された連合国防衛軍の分散した性格は戦争の間の東軍の弱みの一つであった。 東部戦線 西部戦線とは地理的懸隔もあってやや独立した動きとなっていたが、戦争後半では西部との連携が重要な課題となった。 西部戦線は当時もその後の歴史的な整理の段階でも、東部戦線よりかなり多くの注目を集めていた。これはその対立する両軍の主要都市が近く西部の大都市に大きな新聞の発行所が集中しており、西部で名声を博した人物がいたからでもある。このために西軍が東部で東軍を叩き、東部の領土を侵略していったことは、ほとんど気付かれないままであった。 孝子峠要塞の戦い後、紀山州から出撃した梶原和弘少将率いる西軍(紀山軍)は紀山と参河の州境である孝子峠要塞の奪還、及び弓張山地の突破を目指しており、第一次参河方面打通作戦を発動するに至った。すでに弓張山地の葦毛湿原を占領していた紀山州軍は、勢いそのままに孝子峠要塞の周辺にあり、東軍(参河軍)の兵站ルートの経由地点であった竜ヶ岩洞砦や石巻山要塞に攻め寄せ、これを陥落させた。 竜ヶ岩洞砦や石巻山要塞で撃破され、後退する東軍を押しとどめたのは米川啓之将軍率いる援軍であった。米川は旧幕府軍の陸軍歩兵奉行(少将クラス)であり、作戦指揮に精通していた。撤退してきた東軍と援軍とを合わせ、指揮系統がボロボロになっていた参河軍を再編し、的場峠に築かれた防衛ラインを用いて的確な防衛線を行った(的場の戦い)。西軍はこの堅固な防衛ラインを突破できず攻めあぐね、かといって引くわけにもいかず、自軍も防衛ラインを構築し相手の攻撃に備えた。的場の戦いにおいて、結局両軍は散発的な戦闘を五か月も繰り返したが、どちらも防衛ラインを突破するわけでもなく、結果として梶原が他地域の援軍に紀山軍を回すために撤退し、引き分けに終わっている。 戦闘名称 月日 州 勝者 特記事項 第一次参河打通作戦 竜ヶ岩洞砦の戦い 4月25日-26日 参河州 西軍 第一次石巻山要塞の戦い 4月31日-5月2日 参河州 西軍 的場の戦い 5月15日-10月14日 参河州 引き分け 第二次石巻山要塞の戦い 6月24日-25日 参河州 西軍 防衛ラインの隙をついて東軍が石巻山の奪還に乗り出し、奇襲攻撃を行ったが、西軍が防衛に成功。 終戦 1795年に東西戦争は合衆国の勝利で終結し、静駿講和条約が結ばれ、共和連合は解体された。しかし、南瑞州共和連合が、不勉強の勘違いによって蜂起した国家であったことから「南瑞州人は無知、無学」という偏見が生まれ、南東地域に対する地域差別はその後も続くことになる。 1797年12月17日には、連合規約に代えてさらに中央集権的な合衆国憲法が激論の末に制定される。1799年6月4日に発効され、同年に「やることは全て終えた」と古海は6選もした(というよりあまりにも古海が人気であり、市民が大統領選をボイコットした)大統領職を辞すが、結局は第8回大統領選(ボイコットにより第2回~第7回は『失われた選挙戦』となった)でまた担がれ、78歳の高齢で大統領に当選した。これより高齢の大統領はこの後には生まれていない。 瑞州は、「自由」と「民主主義」を掲げたことから、近代のの共和制国家としても、当時としては珍しい民主主義国家であった。 帝国主義 先述した通り、大航海時代以降、米州各国が欧米列強の植民地とされる中で、瑞州が欧化政策を維持しつつ独立を長く保ち、政権の交代にも(曲がりなりにも)成功したことは、後の国民国家意識にそのまま繋がる民族・国民意識、そして愛国心のさらなる醸成をもたらした。 瑞州内戦
https://w.atwiki.jp/minsutoumatome/pages/96.html
【たてて にぎって】小沢民主党研究第111弾【ぶって】 http //tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1188743770/ 【若手は】小沢民主党研究第112弾【黙って働け】 http //tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1189056171/ 【みんな】小沢民主党研究第113弾【あべのせいね】 http //tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1189418972/ 【話を受けているけど】小沢民主党研究第114弾【受けてない】 http //tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1189579949/ 【我が名を世界に】小沢民主党研究第115弾【テロリス党】 http //tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1189667824/ 【道化師たちの】小沢民主党研究第116弾【スレッド】 http //tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1189831048/ 【総花】小沢民主党研究第117弾【徒花】 http //tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1190038284/ 【国連からの】小沢民主党研究第118弾【逃走】 http //tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1190257018/ 【国連なんて】小沢民主党研究第119弾【だいきらい】 http //tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1190452764/ 【はじめての】小沢民主党研究第120弾【しゅはんしめい】 http //tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1190701369/
https://w.atwiki.jp/gundamsougou/pages/43.html
A.D.2307ソレスタルビーイングトレミーチーム トリニティ その他 ユニオン AEUPMCトラスト 人類革新連盟 国連軍 その他 A.D.2312ソレスタルビーイング 地球連邦軍 アロウズ カタロン イノベイター勢力 A.D.2314ソレスタルビーイング 地球連邦軍 民間人 A.D.2307 ソレスタルビーイング トレミーチーム 刹那・F・セイエイ ロックオン・ストラトス アレルヤ・ハプティズム ティエリア・アーデ スメラギ・李・ノリエガ フェルト・グレイス ラッセ・アイオン イアン・ヴァスティ クリスティナ・シエル リヒテンダール・ツエーリ トリニティ ヨハン・トリニティ ミハエル・トリニティ ネーナ・トリニティ その他 王留実 ユニオン グラハム・エーカー ビリー・カタギリ レイフ・エイフマン AEU パトリック・コーラサワー カティ・マネキン PMCトラスト アリー・アル・サーシェス 人類革新連盟 ゼルゲイ・スミルノフ ソーマ・ピーリス 国連軍 アレハンドロ・コーナー その他 リボンズ・アルマーク A.D.2312 ソレスタルビーイング 刹那・F・セイエイ 沙慈・クロスロード ロックオン・ストラトス アレルヤ・ハプティズム ティエリア・アーデ スメラギ・李・ノリエガ フェルト・グレイス ラッセ・アイオン イアン・ヴァスティ ミレイナ・ヴァスティ アニュー・リターナー 地球連邦軍 ゼルゲイ・スミルノフ パトリック・コーラサワー(後にアロウズへ異動) アロウズ ミスター・ブシドー ソーマ・ピーリス(脱走、ソレスタルビーイングに合流) カティ・マネキン(脱走) アーバ・リント アンドレイ・スミルノフ ルイス・ハレヴィ カタロン イノベイター勢力 リボンズ・アルマーク リジェネ・レジェッタ ヒリング・ケア A.D.2314 ソレスタルビーイング 刹那・F・セイエイ 沙慈・クロスロード ロックオン・ストラトス アレルヤ・ハプティズム ティエリア・アーデ スメラギ・李・ノリエガ フェルト・グレイス ラッセ・アイオン イアン・ヴァスティ ミレイナ・ヴァスティ 地球連邦軍 民間人
https://w.atwiki.jp/ggenew/pages/121.html
シナリオ攻略 勝利条件 敵軍ユニットの全滅 敗北条件 マスターユニットが撃破 自軍が全滅 ウォーズトリガー マスターユニットがシン、レイのいずれかを撃破 マスターユニットがオルガ、クロト、シャニを撃破 マスターユニットがネオを撃破 マスターユニットがセルゲイ、ピーリス、コーラサワーのいずれかを撃破 初期配置 自軍 自軍選択2艦のみ 敵軍 機体 パイロット(艦長) 出撃数 ポイント HP EN 攻撃 防御 機動 備考 ミネルバ タリア・グラディス 1 2300 フォースインパルスガンダム ルナマリア・ホーク 1 800 14740 308 32 30 34 デスティニーガンダム シン・アスカ 1 1200 18260 458 35 35 35 レジェンドガンダム レイ・ザ・バレル 1 1200 18260 458 36 34 33 ザクファントム ザフト兵 4 700 13620 181 28 27 28 赤服 ザクウォーリア ザフト兵 8 500 13620 166 27 27 27 緑服 グフイグナイテッド ザフト兵 3 700 14180 188 30 29 30 赤服 6 600 14180 188 30 29 30 緑服 ゲイツR ザフト兵 4 600 13720 166 27 27 26 赤服 8 500 13720 166 27 27 26 緑服 敵軍増援 ウォーズブレイク1発動 MAP2下 機体 パイロット(艦長) 出撃数 ポイント HP EN 攻撃 防御 機動 備考 ドミニオン ナタル・バジルール 1 1800 カラミティガンダム オルガ・サブナック 1 1100 15120 417 33 31 31 レイダーガンダム クロト・ブエル 1 1100 15120 432 31 31 33 フォビドゥンガンダム シャニ・アンドラス 1 1100 15120 432 31 32 31 ストライクダガー 地球連合兵 4 600 11900 131 28 28 31 8 500 11900 131 28 28 31 ウォーズブレイク2発動 MAP1上 機体 パイロット(艦長) 出撃数 ポイント HP EN 攻撃 防御 機動 備考 ガーティ・ルー イアン・リー 1 1300 エグザス ネオ・ロアノーク 1 1100 15070 183 37 30 33 カオスガンダム スティング・オークレー 1 1100 15950 318 36 35 36 アビスガンダム アウル・ニーダ 1 1100 15950 318 35 36 35 ガイアガンダム ステラ・ルーシェ 1 1100 15950 318 37 34 37 デストロイガンダム エクステンデッド 4 1500 29610 378 48 40 24 ウィンダム 地球連合兵 12 700 14650 168 32 32 32 ウォーズブレイク3発動 MAP2下 機体 パイロット(艦長) 出撃数 ポイント HP EN 攻撃 防御 機動 備考 ヴァージニア カティ・マネキン 1 600 ヴァージニア 国連士官 2 600 MAP1左 機体 パイロット(艦長) 出撃数 ポイント HP EN 攻撃 防御 機動 備考 GN-X セルゲイ・スミルノフ 1 1400 16900 333 48 48 52 GN-X ソーマ・ピーリス 1 1500 16900 333 48 48 52 GN-X 国連兵 6 1200 16900 333 48 48 52 MAP1右 機体 パイロット(艦長) 出撃数 ポイント HP EN 攻撃 防御 機動 備考 GN-X パトリック・コーラサワー 1 1300 16900 333 48 48 52 GN-X ダリル・ダッジ 1 1200 16900 333 48 48 52 GN-X 国連兵 6 1200 16900 333 48 48 52 ウォーズブレイク4発動 MAP1上 機体 パイロット(艦長) 出撃数 ポイント HP EN 攻撃 防御 機動 備考 ガンダムスローネアイン ヨハン・トリニティ 1 1900 20160 335 65 65 68 ガンダムスローネツヴァイ ミハエル・トリニティ 1 1900 20160 335 65 63 70 ガンダムスローネドライ ネーナ・トリニティ 1 2000 20160 335 63 65 70 MAP1下 機体 パイロット(艦長) 出撃数 ポイント HP EN 攻撃 防御 機動 備考 ストライクノワール スウェン・カル・バヤン 1 2000 20720 357 66 65 67 ヴェルデバスター シャムス・コーザ 1 2000 20720 417 66 63 63 ブルデュエル ミューディー・ホルクロフト 1 1900 20720 357 65 67 65 MAP2下 機体 パイロット(艦長) 出撃数 ポイント HP EN 攻撃 防御 機動 備考 アルヴァトーレ アレハンドロ・コーナー 1 3000 36800 447 75 73 62 GN-X 国連兵 8 1300 18100 342 54 54 58 攻略 相変わらず改造されています。サイサリスの核で吹っ飛ばすのがセオリーですが…。 WBさえ起こさなければ経験値稼ぎにはかなり役に立つステージです。 同じような位置づけな、他の二つ(EX1・EX2)に比べて巨大MA系のボスが少ないからか楽なイメージがある。 注意すべきはデストロイ(防御アビ充実、MAP兵器)、アルヴァトーレ(高ステータス、MAP兵器)、後はフェイズシフト装甲持ちが多いことくらいか。 なお、舞台は宇宙要塞メサイア、『SEED DESTINY』の最終決戦のあった場所。 あと初期配置の敵シン&レイはFAITHの紋章をつけています。
https://w.atwiki.jp/dunpoo/pages/121.html
最新の情報は、●構造的暴力 へ 1010 ノーベル平和賞アハティサーリ氏 元フィンランド大統領 [朝日] 0617 世界の難民、5年ぶり1千万人超す 07年末 [朝日] 0529 5歳未満の子供の死亡、昨年は500万人 アフリカ [朝日] 0522 日本は世界で5番目に平和 最下位はイラク [朝日] 0319 難民申請者数33万8千人に 07年、イラク人倍増 [朝日] 0901 銃所有、6億5千万丁が民間 米国は100人に90丁 [朝日] 0831 イラク査察委事務所で化学兵器発見 11年間も放置 [朝日] 0825 新しい病気の発生・拡散、「過去にない速さ」 WHO [朝日] 1210 ユヌス氏「貧困は平和への脅威」 ノーベル平和賞授賞式 [朝日] 1121 世界のエイズ患者、約4千万人 国連報告 [朝日] 1030 25歳未満の失業率、世界で13.5% 大人の3倍 [朝日] 0918 世銀上級副総裁、貧困撲滅ミレニアム目標達成に懸念 [朝日] 0609 労組活動家115人殺された 国際自由労連が年次報告 [赤旗] 0517 小型武器:世界で毎日1000人死亡 NGOが報告書 [毎日] 0505 児童労働、初の減少・ILO報告書 [日経] 0419 難民数は十年余で半減、長期化が深刻に UNHCR白書 [朝日] ハンセン病差別撤廃をアピール、カーター氏ら署名 [読売] 世界人口白書、両性の平等を強調 貧困削減へ投資訴え [朝日] 強制労働グローバル・レポート-第93回ILO総会討議資料 名前 コメント ↑ご自由にコメントをお書き下さい。 1010 ノーベル平和賞アハティサーリ氏 元フィンランド大統領 [朝日] 2008年10月10日20時14分 05年8月15日、フィンランドのヘルシンキで、インドネシア・ナングロアチェ州独立紛争の和平協定調印式を終え、当事者と握手をするアハティサーリ氏(中央)=樫山晃生撮影 【ロンドン=土佐茂生】ノルウェーのノーベル賞委員会は10日、08年のノーベル平和賞を、世界各地で地域紛争の和解に向けた仲介役を果たしてきたマルティ・アハティサーリ元フィンランド大統領(71)に授与すると発表した。 同賞委員会は授賞理由を「複数の大陸で30年以上にわたり、国際的な紛争問題の解決に重要な努力を注いできた。世界平和と国家間の友愛の実現への貢献は、アルフレッド・ノーベルの精神に合致する」とした。授賞式は12月10日にオスロで開かれる。賞金は1千万スウェーデンクローナ(約1億4千万円)。 アハティサーリ氏はノルウェーのメディアに「とてもうれしい。長い年月がかかったナミビアの独立問題がもっとも重要だった」と語った。 同氏は、77年、国連代表として南アフリカに占領されていたナミビアで紛争調停を初経験した。91年に始まった旧ユーゴスラビアの解体過程では地域の安定に奔走。インドネシア・ナングロアチェ州の独立紛争の仲介では、スマトラ沖大地震・津波(04年末)で同州が深刻な被害を受けたのを転機ととらえ、05年、政府と独立派「自由アチェ運動(GAM)」の包括的和平合意にこぎ着けた。 セルビアのコソボ自治州(当時)で激化した民族紛争では、欧州連合(EU)を代表して和平に貢献。コソボの最終地位を巡る交渉では07年、国連事務総長特使として国際社会の監視下での「独立」を提案。この流れを受けてコソボは今年2月、独立を宣言した。 アハティサーリ氏は外交官出身。豊かな国際経験が買われ、94年に社会民主党から大統領選に立候補、当選した。大統領任期終了後は紛争調停を専門とするNGO「危機管理イニシアチブ(CMI)」を設立し、和平仲介の取り組みを続けている。 ◇ ■マルティ・アハティサーリ氏 フィンランド・ビープリ(現ロシア領)生まれ。パキスタンでのNGO活動の後、フィンランド外務省に入り、73年、36歳でタンザニア大使。国連ナミビア特別代表などを歴任。94~00年、フィンランド大統領。大統領退任後も国連事務総長特使としてコソボ問題に取り組んだ。 URL http //www.asahi.com/international/update/1010/TKY200810100244.html 0617 世界の難民、5年ぶり1千万人超す 07年末 [朝日] 2008年6月17日21時59分 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が管轄する難民が07年末時点で約1140万人(前年比150万人増)に達し、5年ぶりに1千万人を超えたとする調査結果が17日、発表された。増加は2年連続。アフガニスタンやイラクからの難民増が要因という。 一方、紛争による国内避難民は2600万人、自然災害による国内避難民は2500万人だった。国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)が管轄するパレスチナ難民が460万人おり、合計すると、07年末時点で紛争や災害で家を追われた人は6700万人に達する計算になる。(パリ) URL http //www.asahi.com/international/update/0617/TKY200806170352.html 0529 5歳未満の子供の死亡、昨年は500万人 アフリカ [朝日] 2008年05月29日20時19分 国連児童基金(ユニセフ)は28日、横浜市で「アフリカ子供白書2008―子供の生存」を発表した。06年に世界全体で5歳未満の乳幼児の死者は初めて1千万人を切ったが、半数の500万人がアフリカに集中し、1日に1万4千人が死亡していることを明らかにした。 TICADに合わせて初めて刊行。白書によると、サハラ以南では06年、6人に1人が5歳の誕生日を迎えられない状況だという。 アン・ベネマン事務局長は記者会見で「地域の総合的な保健システムが機能していれば死は防げる」と強調。食糧価格の高騰についても「1日1ドル以下で暮らす国の方が影響は大きい」と指摘した。(吉田美智子) URL http //www.asahi.com/international/update/0529/TKY200805290281.html 0522 日本は世界で5番目に平和 最下位はイラク [朝日] 2008年05月22日15時04分 【ロンドン=大野博人】世界の中で、日本は5番目に平和な国――。英国の調査会社がまとめた世界平和指数(GPI)で、日本は140カ国・地域の中でかなり高い評価を得て、G8の中で唯一ベスト10入りした。1位はアイスランド、中国67位、米国97位で、最下位はイラクだった。 英誌エコノミストと同じグループのエコノミスト・インテリジェンス・ユニットが20日に発表した。軍事費や近隣国との関係、人権状況など、単に戦争をしているかどうかだけではなく、平和な社会の実現に必要な24分野の指標を設定して割り出したという。昨年、121カ国を対象にしたのが最初で今年は2回目。 日本は犯罪やテロの懸念、人権尊重など多くの分野で最高の評価だったが、近隣国との関係や軍備能力の高さなどが平和度にはマイナスと見られたようだ。 ランキング高位には北欧諸国が目立つ。G8の中ではロシアが最下位とされた。 URL http //www.asahi.com/international/update/0522/TKY200805220055.html 0319 難民申請者数33万8千人に 07年、イラク人倍増 [朝日] 2008年03月19日00時25分 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は18日、07年の先進国への難民申請者数が01年以来初めて増加に転じたと発表した。イラク人の申請が前年に比べ倍増したことが要因となっている。 欧米や日本など先進43カ国の申請状況をまとめた。07年の申請者数は約33万8000人で、06年の約30万6000人から3万人以上増えた。イラク人の申請者は前年の約2万3000人から約4万5000人になり、全体の増加分の多くをイラク人が占めた。 イラク人の申請増はイスラム教の宗派対立と暴力が背景にあると見られる。報告書は「この傾向が続けば今後、イラク人の難民申請がピークだった00年から02年の水準に達するかもしれない」としている。年間申請者数が5万人を超えたイラク戦争直前の水準に戻る可能性を指摘したものだ。 先進国への難民申請者数は01年に約65万5000人まで増えたが、その後減少。06年は過去20年で最低だった。日本での07年の申請はミャンマー(ビルマ)人を中心に約820人。約950人だった06年からは減少したが、200人台だった00年からは増加傾向にある。 URL http //www.asahi.com/international/update/0319/TKY200803180388.html 0901 銃所有、6億5千万丁が民間 米国は100人に90丁 [朝日] 2007年09月01日07時29分 個人の銃など民間で所有されている銃は世界で6億5000万丁に上ることが、スイスのジュネーブ国際問題研究所の調査で明らかになった。民間所有の銃は絶対数、所持率とも米国が群を抜いて多い。銃の価格は規制や市場に出回っている数などで大きく変わり、世界的に普及している自動小銃カラシニコフ銃では先進国と途上国で6倍の差があることもわかった。 先進諸国や国連機関が調査に協力している同研究所の07年版「小型武器調査」によると、軍用、警察用、民間所有を合わせた銃の総数は8億7500万丁で、民間所有が75%近くを占める。銃は短銃やライフル銃など手で扱えるものを指す。 民間所有の銃の数は米国だけで2億7000万丁に達し、インド4600万丁、中国4000万丁、ドイツ2500万丁と続く。多くは護身用の銃や猟銃だという。人口100人当たりの所有数では米国90丁、イエメン61丁、フィンランド56丁、スイス46丁の順となっている。 カラシニコフ銃の単価の地域別調査によると、銃規制や登録管理制度が整っている西欧などの国では高く、コピー銃などが大量に出回っているアフリカなどでは安いといった傾向が見られた。86~05年の平均値は西欧927ドル、中東869ドルなどが比較的高く、アジア631ドル、旧ソ連・東欧303ドル、アフリカでは156ドルだった。 URL http //www.asahi.com/international/update/0831/TKY200708310334.html 0831 イラク査察委事務所で化学兵器発見 11年間も放置 [朝日] 2007年08月31日10時21分 国連は30日、6月末に任務を終えたイラク大量破壊兵器の国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)のニューヨークの事務所から、吸い込むと窒息死に至る毒性物質ホスゲンが入った小型容器が見つかったと発表した。前身の国連大量破壊兵器廃棄特別委員会(UNSCOM)が96年にイラクの化学兵器施設から誤って持ち帰り、事務所内に放置されていたとみられる。 国連によると、事務所を閉鎖するため、資料などを整理していた職員が24日に見つけた。目録を探したところ、29日になってホスゲンであることが判明したという。事務所内から毒物は検出されなかった。 容器は事務所内の金庫に保管された後、30日、米当局に引き渡された。イラクで押収した化学物質のサンプルは、現地から直接、研究施設に送られる決まりになっており、なぜ事務所にあったかは調査中という。 URL http //www.asahi.com/international/update/0831/TKY200708310056.html 0825 新しい病気の発生・拡散、「過去にない速さ」 WHO [朝日] 2007年08月25日11時03分 国境を越えた人の移動が加速するなかで、新しい病気も急速に世界に広がっていることが、世界保健機関(WHO)の調べで明らかになった。過去40年間に約40の新しい病原体が確認され、この5年間に1100もの伝染病の流行が起きた。WHOは伝染病発生情報やウイルス検体の共有が欠かせないとしている。 WHOが発表した07年版の「世界保健報告」によると、67年以降、エイズやエボラ出血熱、SARS(重症急性呼吸器症候群)、鳥インフルエンザの人への感染、マールブルグ熱、ニパウイルスなど、39の病原体が見つかった。ほぼ毎年新しい病気が生まれている計算で、「過去に例のない速さ」だとしている。 年間20億人と推定される飛行機利用者や膨大な量の物資の国際移動が病気の拡散を加速させていると報告書は分析。特に飛行機移動で潜伏期間中の感染者が本人も気づかないうちに各地に感染者を増やす。病気は数時間単位で国から国へと移動し、拡散防止は「事実上不可能」という。 WHOが最も警戒を強めている新型インフルエンザの発生・大流行が起きると、流行を確認した時点で、全世界で国境を越える移動を全面禁止にしたとしても、感染拡大を2、3週間遅らせるだけの効果しかないとも分析している。大流行が起きた場合、過去の流行をもとに試算すると、世界人口の4分の1にあたる約15億人が感染する可能性が高いという。 URL http //www.asahi.com/international/update/0825/TKY200708250086.html 1210 ユヌス氏「貧困は平和への脅威」 ノーベル平和賞授賞式 [朝日] 2006年12月10日21時48分 06年のノーベル平和賞授賞式が10日、オスロの市庁舎であり、共同受賞した、貧困に苦しむ女性の自立を支えるバングラデシュの金融機関「グラミン(農村)銀行」とその創始者であるムハマド・ユヌス氏(66)にメダルと賞金1000万スウェーデンクローナ(約1億6000万円)が贈られた。同氏は受賞演説で「貧困は平和への脅威だ」と語り、対テロ戦争に走る世界の指導者に警告を発した。 ユヌス氏は演説で「世界の指導者の関心が貧困との闘いからテロとの戦いへと移行した」と指摘した。「貧しい人々の生活改善に資金を投入する方が、銃に使うよりも賢明な戦略だ」として、イラク戦争に巨費を投じる米国などの姿勢を批判した。 経済学者であるユヌス氏は74年、バングラデシュを襲った大飢饉(ききん)を目の当たりにし、農村の特に家計を切り盛りする女性に力点を置いた無担保少額融資「マイクロクレジット」を考案。「貧者の銀行」と呼ばれるグラミン銀行から融資を受ける人は同国で約700万人にのぼり、他の途上国でも草の根からの開発の手法として広がっている。 ユヌス氏は演説で、貧困層への融資のような社会性の強い事業を「ソーシャル・ビジネス(社会的事業)」と表現。利益の最大化を求めた従来の営利企業でもなく、寄付に頼る非営利組織でもない。貧困など社会問題の解決という目的を最優先する新たなタイプの事業と位置づけた。 「ソーシャル・ビジネスは、世界の人口の60%を占める貧しい人々の暮らしを変え、貧困からの脱却を手助けすることができる」 ユヌス氏は、ソーシャル・ビジネスを展開する企業でつくる証券市場の創設を提案。「貧困のない世界をつくることはできる。なぜなら、貧困は貧しい人々によってつくられたものではないからだ」。授賞式には、グラミン銀行から融資を受けて自立したバングラデシュの農村の女性らも招かれた。 ノーベル賞委員会のダンボルト・ミョス委員長は同日の演説で、「西洋はユヌス氏とバングラデシュとイスラム世界から多くのものを学んだ」と語り、今年の平和賞には米9・11テロで深まった西洋とイスラム世界との隔たりを狭めたいとの願いが込められていることを明らかにした。 URL http //www.asahi.com/international/update/1210/008.html 1121 世界のエイズ患者、約4千万人 国連報告 [朝日] 2006年11月21日19時46分 国連合同エイズ計画(UNAIDS)と世界保健機関(WHO)は21日、来月1日の世界エイズデーを前に、エイズウイルス(HIV)感染者数などの06年の最新推定値を発表した。感染者数は3950万人で、04年から260万人増。06年の新たな感染者は430万人、エイズによる死者は290万人。世界すべての地域で感染者は増え続けている。 サハラ砂漠以南のアフリカ諸国での感染がなおも深刻で、同地域に世界の感染者の63%が集中している。新たな感染者もこの地域で280万人にのぼる。新たな感染者は南・東南アジア(86万人)、東欧・中央アジア(27万人)で増加が目立つ。 南・東南アジアでは買春による異性間性行為での感染が41%と最も多く、東欧・中央アジアでは注射器による麻薬使用による感染が67%にのぼっている。 抗レトロウイルス薬(ARV)による治療を受けることができた途上国の感染者の割合は、中南米・カリブ海地域の75%から中東・北アフリカ地域の5%までばらつきがある。世界全体では24%と低い水準にあるが、UNAIDSは「03年が7%だったことを考えれば、着実に拡大している」としている。 URL http //www.asahi.com/international/update/1121/018.html 1030 25歳未満の失業率、世界で13.5% 大人の3倍 [朝日] 2006年10月30日20時34分 国際労働機関(ILO)は29日、世界の若者(15~24歳)の雇用状況をまとめた調査報告書を発表した。この10年間に、職を必要としながらも仕事のない失業人口は7400万人から8500万人へと1000万人以上増加。失業率は13.5%に達し、大人(25歳以上)の失業率の3倍も高い。世界経済が拡大する一方で若者が労働市場から締め出されている現状は、将来の経済に悪影響をおよぼす、と報告書は指摘している。 報告書によると、世界の若者人口は約10億人で、うち6億5700万人が労働市場にいる。95年から05年までの間に若者人口が13%余り増えたのに対し、若者の雇用機会は4%弱しか拡大しなかった。その結果、世界の失業者の44%を若者が占めるに至った。 若者の失業率が最も高いのが中東・北アフリカ(25.7%)。中東欧、サハラ以南のアフリカが続く。 特に東南アジアは失業率が9.2%から15.8%へと大幅に悪化。技能不足の若者が経済低迷の影響を最も受けやすく、アジア通貨危機の影響が出たとみられる。中東は、女性の就職が難しいことなどが失業率を押し上げている。 URL http //www.asahi.com/international/update/1030/013.html 0918 世銀上級副総裁、貧困撲滅ミレニアム目標達成に懸念 [朝日] 2006年09月18日03時04分 途上国援助を担う世界銀行のフランソワ・ブルギニョン・チーフエコノミスト兼上級副総裁は16日、19日からの年次総会を前に朝日新聞記者と会見した。貧困や飢餓の撲滅などを目指す国際約束の国連ミレニアム開発目標(MDG)について、「期限の2015年の達成が危ぶまれる」と懸念を表明、日本など先進国に積極的な取り組みを促した。 00年に国連サミットで採択されたMDGには、貧困と飢餓の撲滅や初等教育の普及、妊産婦や乳幼児死亡率の低下などの達成目標が盛り込まれ、昨年の主要国首脳会議(G8)などは途上国援助の上積みを約束した。ブルギニョン氏は「G8などからの開発資金の拠出が大幅に遅れている」「ガーナやブルキナファソなど途上国の一部では改革などが進み、さらなる進展が可能にもかかわらず、実現するための資金がない」と述べ、資金不足のしわ寄せが途上国側で起きていることを明らかにした。 中断している世界貿易機関(WTO)の多角的貿易交渉(ドーハ・ラウンド)については「歴史を振り返れば、日本をはじめ、経済成長を遂げた国のすべてが輸出主導型だった」と指摘。交渉の早期再開が途上国にとってプラスとなるとして、交渉の前進に期待を表明した。また、非関税障壁など途上国の貿易を妨げるあらゆる制度の撤廃に先進国や中進国が積極的に取り組むべきだと強調した。 URL http //www.asahi.com/business/update/0918/001.html 0609 労組活動家115人殺された 国際自由労連が年次報告 [赤旗] 【パリ=浅田信幸】二〇〇五年に世界で労働者の権利を守ってたたかっている百十五人の労働組合活動家が殺され、九千人が逮捕された―ブリュッセルに本部がある国際自由労連(ICFTU)は七日、労組の権利侵害に関する年次報告を発表しました。 これによると世界で最も労組の活動が厳しく危険な国は南米のコロンビアで、昨年一年間に七十人が殺害されています。また中東湾岸諸国では組合の結成そのものが禁じられており、それ以外の多くの国でも労組や活動家は暴力と抑圧の対象になっていると指摘しています。 アジアでは、組合活動家が「警告的暴力」の対象となり、しばしば警察による弾圧を受けており、十七人が殺され、八千人以上が逮捕されました。日本についても「公共サービス部門での組合の権利に対する強い法的規制が残っている」と指摘しています。 アフリカでは、多くの国で「組合結成や団体協約、ストライキに対する規制法で、政府が労働者の権利を尊重しない」実情があり、「組合に対するますます攻撃的な弾圧の舞台になっている」と述べています。 欧州では、経営者が「社会的対話」といわれる労使協議制度を骨抜きにすることに「ますますエネルギーを傾注」していると指摘。いくつかの中東欧諸国では独立した労組の結成が認められていません。 中東では、イラクで組合の中心的幹部が相次いで殺される事態が発生しています。イランでは労組結成の動きが弾圧にさらされ、他の国でも労組が認められず、出稼ぎ労働者は無権利状態で搾取されています。 南米は、とくに多国籍企業が組合権を侵害している一方で、非正規経済が拡大し、労働裁判所が存在しないなど、労働者と労組の権利尊重にとって障害となる問題が多いとしています。また米国では、ブッシュ政権が労組の自由と団体交渉制度を掘り崩しつつあると警告しています。 URL http //www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-06-09/2006060907_03_0.html 0517 小型武器:世界で毎日1000人死亡 NGOが報告書 [毎日] 銃器などの規制を目指す非政府組織(NGO)でつくる国際小型武器行動ネットワーク(事務局ロンドン)は16日、「小型武器により世界で毎日1000人が死亡している」として、小型武器の国際取引に関する統一基準づくりなどを訴える報告書を発表した。 01年の国連小型武器会議で採択された行動計画の実施状況を検討するため、6月下旬から開く国連会議に向けて報告書をまとめた。同ネットワークは小型武器を含む通常兵器の国際取引に関する規則を明確化する「武器貿易条約(ATT)」の策定と批准拡大も目指している。 報告書は小型武器について、各国が一般人の所持規制や被害者支援などで合意することも求めている。 小型武器には、1人または数人で扱うことのできる短銃やライフル、迫撃砲などが含まれる。(ロンドン共同) 毎日新聞 2006年5月17日 22時25分 URL http //www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/news/20060518k0000m030154000c.html 0505 児童労働、初の減少・ILO報告書 [日経] 国際労働機関(ILO)は4日、子どもの健全な成長を妨げかねない「児童労働」が初めて減少したとする報告書を発表した。大人同様に働いている子どもは2004年現在、途上国を中心に世界で2億1800万人と前回調査の2000年に比べて11%、2800万人減った。特に危険な労働を強制されている子どもは大きく減少したという。 児童労働とは原則15歳未満の子どもが大人と同じように働くことを指し、家事の手伝いやアルバイトは含まない。 中南米・カリブ海諸国では週に1時間以上働く子どもの数が4年間で3分の1、子ども全体の5%まで減った。アジア・太平洋地域も減少傾向にはあるが、子どもの数自体が減っていることもあり、働く5―14歳はなお1億2200万人に上るという。 特に懸念されるのは人身売買の対象となったり奴隷、少年兵士、売春、麻薬取引などを強いられている子どもたち。危険な労働に従事している5―17歳は前回調査比26%減の1億2600万人で、14歳までに限ると33%減った。URL http //www.nikkei.co.jp/news/main/20060505AT1G0400T04052006.html 0419 難民数は十年余で半減、長期化が深刻に UNHCR白書 [朝日] 2006年04月19日23時05分 世界の難民の数は、武力紛争の減少と内戦などが終わったことを受けた大規模な難民の帰国でこの10年余りで半減したことが19日、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の06年版「世界難民白書」で明らかになった。しかし、今も難民として暮らす人びとの多くは長期化した紛争の犠牲者で10年以上も難民キャンプで暮らし、いまだに故国に帰る見通しの立たない長期難民として苦しんでいる。 白書の発表は00年以来。難民人口は92年の約1800万人から年々減り、04年は約924万人だった。白書はこの四半世紀で最も低い水準だとしている。この間大きな難民発生が少なかったことと、この数年でアフガニスタン難民約340万人、ボスニア難民約100万人などの大きな帰国が相次いだことが原因とみられる。 ただ、924万人の難民のうち約570万人は長期化した紛争のために長い年月を難民として過ごしている人びと。5年以上の難民生活を強いられている2万5000人以上の難民集団だけでもイラン、パキスタンにいるアフガン難民、タンザニアにいるブルンジ難民、アルメニアのアゼルバイジャン難民、ネパールのブータン難民など33グループにのぼる。 難民としての生活年数の平均は93年は9年だったが、03年には17年と長期化が進んでいる。UNHCRは、こうした難民は、原因となった紛争などへの国際社会の関心が薄れ、解決へのめどが立っていない分、深刻だとしている。 民族紛争などで国内にとどまっているものの安全を求めて故郷を離れた国内避難民は世界で2000万~2500万人にのぼり、これまで国境を越えた難民の救援を中心にしてきたUNHCRの大きな課題になっている。 URL http //www.asahi.com/international/update/0419/017.html ハンセン病差別撤廃をアピール、カーター氏ら署名 [読売] 【ニューデリー=林英彰】世界ハンセン病の日にあたる29日、同病患者に対する差別や偏見の撤廃を求める「グローバル・アピール」がニューデリーで発表された。 同病撲滅に取り組んでいる日本財団の笹川陽平会長のほか、カーター元米大統領やチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世ら、世界の指導者11人が署名を寄せた。 アピールは、患者や元患者、その家族が教育や就職、結婚の機会を制限されるなど社会的偏見に苦しんでいると指摘。国連人権委員会に対して、差別を取り除く原則や指針作りを行うよう求めている。 ハンセン病は1980年代に治療が可能となったが、インドやネパール、ブラジルなど9か国が未制圧国。現在、年約40万人の患者が新たに確認され、インドが約7割を占める。 (2006年1月29日18時59分 読売新聞) URL http //www.yomiuri.co.jp/world/news/20060129it11.htm 世界人口白書、両性の平等を強調 貧困削減へ投資訴え [朝日] 2005年10月12日23時15分 国連人口基金(UNFPA)は12日、05年世界人口白書を発表した。世界人口は64億6470万人で、50年には90億人を超えると予測。人口増加率の高い後発開発途上国(最貧国)を中心とした地域などでの貧困削減のために「ジェンダー(社会的文化的性別)の不平等」を克服し、貧困の被害が集中する女性への投資が必要だと強調した。 人口白書のテーマは94年のカイロでの国際人口開発会議以降、「人口」から「人権」に転換、今年の白書も「平等の約束」を表題とし、女性の教育や子どもを産む産まないの権利の保障も含めた「リプロダクティブ・ヘルス(性と生殖に関する健康)」への投資と、「ジェンダーの公正」を重要テーマに掲げた。 妊産婦死亡の99%が途上国で起き、貧困や女性差別が密接に関係していることから「そのほとんどは予防可能である」と白書は説く。最貧国の集中するサハラ以南のアフリカでは16人に1人が妊娠合併症で死んでいると推計され、同地域では中等教育を終了する女性はわずか30%だ。 女子教育への投資は結婚年齢を遅らせ、出産が減って扶養人口が少なくなる一方、現在の子どもたちが生産年齢に入るなどで貧困削減の経済効果も生み出す。同地域で女性の土地の利用や管理権などを男性同様に認めれば、生産量が20%上がるとの試算も紹介する。 一方で「ジェンダーに基づく暴力」で大きな経済的損失が出ている現実にも警鐘を鳴らした。 国際的に人身売買される年間推定80万人の大半が女性で性的搾取の対象となり、世界中で3人に1人の女性が殴られたり、望まない性関係を強要されたり、虐待されたりしていると報告。保健ケアや取り締まり経費、労働生産性の低下など国が支払う代価は米国だけで毎年126億ドルに達していると指摘している。 URL http //www.asahi.com/international/update/1012/017.html 強制労働グローバル・レポート-第93回ILO総会討議資料 ILOメールマガジンより ILOは、1998年に採択した「仕事における基本的な原則と権利に関する宣言」のフォローアップ活動の一環として、2000年より毎年、宣言に含まれる基本的な権利に関する世界の現況を概説した報告書をグローバル・レポートとして6月に開かれるILO総会に提出してきました。5月11日に発表された今年のグローバル・レポートは、「A global alliance against forced labour(強制労働に反対するグローバルな同盟・英文)」と題し、強制労働の問題を扱います。強制労働をテーマとするものとしては2冊目となる本書は、今回初めて世界及び地域別に強制労働の実態を示す統計データを掲載し、世界全体で少なくとも1,230万人が強制労働に従事しており、うち240万人以上が人身取引の被害者であるとします。また、人身取引加害者が得る利益は毎年、世界全体で320億ドル(人身取引被害者1人当たり平均1万3,000ドル)に達するとします。 労働市場で長く差別を受けてきた少数民族を貧困の悪循環に閉じこめる債務奴隷のように、現代の強制労働のほとんどが依然途上国で見られますが、経済グローバル化のもと、新たに外国人労働者、特に、非正規移民の強制労働問題も登場してきました。 報告書は、各国政府と国内機関が積極的な政策、法の積極的な執行、人間に対するこのような処遇をなくすことに向けた強い決意を追求するならば強制労働は廃絶できるとし、幾つかの国で見られる取り組みを紹介しています。アジアでは、去る5月25~26日に、日本政府の任意拠出により「仕事における基本的な原則と権利に関する宣言」の適用とフォローアップに関する小地域会合をウランバートル(モンゴル)で開催し、グローバル・レポートをもとにした話し合いを行いました。 (報告書の詳細は、下記「トピック」欄をご参照下さい) 新聞発表本文(英語)----- http //www.ilo.org/public/english/bureau/inf/pr/2005/22.htmグローバル・レポート(英語)----- http //www.ilo.org/dyn/declaris/DECLARATIONWEB.INDEXPAGE仕事における基本的な原則と権利に関する宣言----- http //www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/declaration.htm TITLE mag2 - Outlook ExpressDATE 2005/06/13 10 50URL mhtml mid //00000403/